2008年4月4日のブログ記事一覧-カトカト日記 ~霊園・墓石の株式会社加登 公式ブログ~

花はさくら。 @法蔵寺境内墓地

いったいどんな樹の花でも、いわゆる真っ盛りという状態に達すると、あたりの空気のなかへ一種神秘な雰囲気を撒き散らすものだ。それは、よく廻った独楽(こま)が完全な静止に澄むように、また、音楽の上手な演奏がきまってなにかの幻覚を伴うように、灼熱(しゃくねつ)した生殖の幻覚させる後光のようなものだ。それは人の心を撲(う)たずにはおかない、不思議な、生き生きとした、美しさだ。(「桜の樹の下には」 梶井基次郎)

     

いよいよ明日から、法蔵寺境内墓地(八尾市)と天の川むらの霊園(枚方市)の売り出しが始まります。
写真は前回の日記でも掲載した、法蔵寺境内墓地の桜です。

     

古くから我が国では、「花」と言えば桜の花のことでした。
桜の花を見ると、不確かだけれど息苦しいほどに感情が高まる。これはきっと、我々日本人ならではの感性なのでしょう。

冒頭に引用した梶井基次郎の短編にもあるように、満開の桜の周りには、一種眩暈のような危うさが立ち込めている気がします。

あまりにもはかない、刹那の美。
その瞬間の、あふれ出しこぼれそうに膨れあがった、生命の過剰。

それは動を内包した静であり、死を内包した生でもある。
「よく廻った独楽(こま)が完全な静止に澄むように」なんて表現は、ため息が出るほど美しい。

     

散り際の潔いさまが日本人の美意識に訴える、などとよく言われますが、静止から停止へと向かう桜、春風に舞い散る花びらは、幻のようにあえかな生がやがて死に向かう過程を我々自身の姿になぞらえさせながら、同時に新たな転生を示唆するかのようでもあります。

まだ花を残した葉桜が僕はとても好きなのですが、みずみずしく青い葉は、日に日に強くなる陽射しとリンクするように、消滅⇔再生のサイクルを模倣しているような気がするのです。
それは、希望に満ちた季節の、確かな象徴に違いありません。

     

話は相当逸れましたが、法蔵寺境内墓地の桜は既に満開を迎えています(写真はすべて一昨年の同じ頃に撮影したものです)。
お花見気分で是非一度、お立ち寄り下さい。
境内からの眺望も最高ですよ。

もちろん、ご見学頂いた方にはもれなく加登オリジナルエコバッグを差し上げます。





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