「空(くう)」を少しだけかんがえてみる。
by |2008-10-25 18:09:37|
世界規模の不況の中、どことなく暗鬱とした気分が市井を覆っています。
好きなものを好きなだけ買えるという時代は過ぎ去り、限られた予算の中で自分にとって本当に必要なものだけを選択しなければならない。
そのうえ、善良な消費者を嘲笑うかのように、世間には嘘やまがい物がはびこり、種々の判断を難しくしています。
そうしたなか、何が必要で何が必要でないか、何が真実で何が虚偽なのかという取捨を繰り返すことはすなわち、自身の価値基準を積極的に定め、確固たる価値体系を構築することに他なりません。
それはつまり自己を対象化し「自分とは何なのか」を突き詰めて考えることではないでしょうか。
大なり小なり、人は皆幸福を求めている。
ものすごく大雑把に言いますが、仏教的には心が凪いで平穏な状態を、人生の常態である「苦」から逃れている状態と位置づけているようです。
お金がたくさんあっても心が病んでいる人はたくさんいます。
誰もが振り返るほどの美女が、必ずしも良い結婚をするとは限りません。
身体的なハンデを背負っている人のほうが前向きに人生を楽しんでいる例だってたくさんあります。
30年しか生きられなかったけれど充実した人生を送った人もいれば、90歳まで生きたけど常に誰かを憎みつづけた人もいるのです。
「幸福」と聞くと、量的な問題だと思っている人がほとんどなのではないでしょうか。
たくさんお金を稼ぐこと。
友達よりいい大学に入ること。
同僚よりはやく出世すること。
たくさんの異性から言い寄られること。
これらはすべて、量的(数的)な価値観です。
幸福とイコールであることももちろんありますが、先述したように、その反対であることも多々あるわけです。
資本主義の罪過というのは、こうした優劣を可視化することで、本来人の数だけあると言って良い価値体系を、完全に一元化してしまったことだと思います。
冒頭で「自分とは」何なのかを問う必要性について述べましたが、それは「自分自身にとっての」幸福を求めることであって、世間に流布する画一的かつ量的な「幸福」を追うことではないのです。
では、質的な「幸福」って何でしょうか。
個人的には「感謝できる心」を持つことかなあと、漠然と思っています。
僕自身感謝する気持ちに欠けた人間だという自覚があるので、この「感謝する心」は幸福へのパスワードなんじゃないかと、思っているわけです。
他が存在するからこそ己が在る。
ドーナツがあるから「ドーナツの穴」が在るのと同じこと。
僕は所詮、ドーナツの穴なのだ。
他に依拠して存在する自我。
僕は畢竟、生かされているに過ぎないのだ。
僕でないすべての存在によって、生かされているに過ぎないのだ。
そのことに、感謝しなければいけないのだ。
ありがとう、僕を生んでくれた両親、そしてご先祖様。
森羅万象に感謝するのも大事ですが、まずは身近なところから感謝を広げていくのが良いでしょうね。
それによってもたらされる心の平穏こそが、今求められているんじゃないでしょうか。
えらく遠回りしてしまいましたが、何とか燃料の切れないうちに着陸できそうです。
皆さん、先祖供養ってホントに大事ですよ。
え? それだけ? とか言わない言わない。
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