more,more,more......,and say what?
by |2008-11-19 22:59:30|
何時しか僕は、チャーリー・パーカーよりもアイルトン・セナよりも長く生きていることに気付いた。
正岡子規や芥川龍之介の没年齢にも接近してきた。
生きるほどに死が少しずつ知己のように振舞うのは、けして気のせいではないだろう。
生が減退することで、それはきっと穏やかに、静止する水面に広がる紋のような円さを帯びてゆくのだ。

十代の頃と言えば死は、それこそ爆発だった。
そう、まるで映画「気狂いピエロ」のラストシーンのように(笑)
若い命にとって死の瞬間はそれはもう刹那で、本当はそれは周到に取り去られたジェンガの1ピースのように、調和の全体性を損ねる類のものではないにもかかわらず、でもそこに若さは意味という息苦しい形而上学的な問いを投げるのが常であった。
今僕が思う死は、もっとゆっくりと重く、確かなものだ。
それは劇的に振舞うことをしない代わりに、地下水のように静かに、しかし確実に僕たちの生の基音として鳴り続けるのだ。
僕はあと何年生きられるのだろう。
大切な家族や友達と、あと何回会うことが出来るのだろう。
もしかしたら、今日が最後の日かも知れない。
僕は十分に、優しいだろうか。
僕は十分に、優しいだろうか。
この仕事に携わって5年が過ぎた。
お客様のほとんど全てが、近しい誰かの死を乗り越えて我々を訪れる。
誰もがきっと、自問するのだ。
僕は十分に、優しかっただろうか。
私は十分に、優しかっただろうか。
もっともっと優しくしてあげれば良かった。
別離は常に、後悔と共にある。
「もっともっと」をかなえてあげられる場所、それがお墓なのかなって、そんなことを思う秋。
■ 加登のこと、もっと知りたい方は・・・・・





