神々の棲む島 ~前編。
by |2009-01-14 02:48:01|
沖縄本島から、高速フェリーでわずか20分。
神々が住むというその島は、拍子抜けするほどの呆気なさと、「南国特有の」という表現に留まらない大らかさでもって、僕を招き入れてくれた。
歩いても2時間あれば一周できてしまう小さな島、久高島。
船を下りるとすぐに、貸し自転車の店がある。
「どれでも好きなの使っていいよ」
人懐こい女主人の笑顔に促され、僕は早速自転車を選ぶ。
お世辞にも真新しいとは言えない車体、かつては銀色に輝いていたであろうハンドル。潮風による腐食が激しく、毎日手入れしても錆ついてしまうのだそうだ。
どの車体にも通し番号がマジックで書かれているのだが、彼女は僕が選んだ自転車の番号を控えもしない。
僕は身分証明書の提示を求められることはおろか、宿泊先を訊かれることすらなかった。
たとえば海外で自転車を借りる際などは、大抵パスポートを預けるか、幾らかのお金を預かり金として渡しておかなければならない。
何て素敵な島なんだ、それだけで心が躍った。
見れば自転車には、鍵がついていなかった。
人口およそ200人。
神々を常に感じ、真っ直ぐに生きてきたこの島は、こうして観光客が訪れるようになった今でも、疑うことを知らぬかのように無垢だ。
久高島では、女性神職者を中心とする祭祀組織によって、年に30回近くの祭祀が行われている。
アイヌ文化と同じように仏教伝来以前、縄文時代の信仰、世界観、死生観が今なお色濃く残存する民俗学的にも貴重な島だ。
動植物を含めた自然そのものに神が宿っていると考えられており、観光客もみだりにそれらを動かしたりしてはならない。石ころであれ貝殻であれ、島外への持ち出しも固く禁じられている。
島内にいくつか存在する御嶽(うたき)は自然とともに崇拝される、先祖の魂が留まる地として、外部の人間が立ち入ることは許されない。
自然(特に太陽と月)をあがめ、先祖をまつる。
今では仏教徒が多くを占めるようになった我が国にあってなお、縄文世界の残滓は心の深いところで我々の感性を規定している、そう思う。
海へと抜ける道。
途中にはこんな方もいらっしゃって。
母なる海が見える。ほっとする瞬間。
島の北側には、人が全く住んでいない。祭祀の期間中は一般人が入ることも出来ない。
あぜ道の両側は密度の濃い森となっていて、本州ではお目にかからない亜熱帯ならではの木々が風にざわめいている。
森の中からは時折鳥や猫などが歩く音がして、慣れるまではその都度驚かされた。
その向こうから通低音としてごうごうと鳴り続ける波音。
鼻腔をくすぐるのは土のにおい、潮風のにおい、そして木々のにおい。
五感のすべてが自然を感じ、僕の中に眠る太古の記憶は想像力を掻き立てずにはおかない。沖縄本島でも感じたことだが、この島にいると海や空、木々といったものが本当に意志をもって僕の前に立ち現れているという思いを強く持つのだ。
馬鹿馬鹿しい、と一笑に付したくなる人もいるだろう。
それでは、人を傷つける動物もタチの悪い犯罪者もいないこの島で、森の中のあぜ道を通るときの得も言われぬ不気味さをどう説明したらよいのか。
こんな空があれば、あの世の存在を思わぬわけにはいかない。
自然はやはり、神さまだ。
こちらが大人しくしていればまだ良いが、怒らせると途轍もなく怖い。
人一倍小心者であるという事実はさておき、日本人である僕の心には確実にそう刷り込まれている。御神木を切れ、と言われて平気で切れる日本人がどれだけいるだろう。
目に見えないものを信じる力、それこそが信仰だ。
神さまは信じる人の心にだけ存在するのだ。
祈っても祈っても、台風や旱魃は作物を荒らし、時には人を殺めることもする。この世界の何と理不尽なことか。けれどそれは信仰が足りないせいだ。状況を在りのままに受け入れること、他に責を求めないこと。
そんなふうに生きることが出来たら、どんなに幸せなことだろう。
この美しくも怖ろしい久高の森を、そう思いつつ歩いた。
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