鴻巣地区の前半です。(小さい写真はクリックすると拡大します)
県道27線御成橋そばの交差点付近から鎌倉街道と思われる道が北本方面に向かってのびていきます。
①稲荷神社
御成橋の直前右側の細い道を入っていくとすぐに石の鳥居が左側に見え、鳥居をくぐって降りていくと滝馬室稲荷神社社殿が有ります。正規の参道(表参道)は荒川側の方だと思われますがこちら側は入り口のすぐそばが堀になっていてあまり使用していない様で草ぼうぼうでした。神社の由来などは判りません。
②川幅日本一標識
御成橋の近くに川幅日本一を現すポールが立てられています。鴻巣市と吉見町の間を流れる荒川の最大幅は2537mあります。実は、実際の川幅は荒川の中流域ということもありわずか30mでが下流の川口市あたりよりも狭くそのほとんどが河川敷です。ポールが設置されているのは橋のふもとですが、最大幅が設定されている場所はここより630m上流部(河口から62km地点)です。河川敷は農地が広がっています。
橋を渡ると道路は直線で河川敷上を吉見町に向かいます。実際に通過してみるとその長さ(広さ)が実感できます。
④氷川神社
滝馬室氷川神社は鴻巣市滝馬室にある神社です。由緒書によりますと創建年代は不詳ですが「延歴年間(782~805)坂上田村麻呂が東征の途次農作物を荒らす大蛇を退治して頭を当社に胴体を地内の常勝寺に尾を吉見町の岩殿観音に埋めた」との伝承が残されていて古くからまつられていたと思われます。
ここの狛犬像は獅子ではなく犬そのものでとても珍しいと思います。
氷川神社では鴻巣市指定無形民俗文化財の滝馬室的祭(まといさい)の神事が伝えられています。
征夷大将軍坂上田村麻呂が東北遠征の途中この地の住民に悪竜胎児を依頼され、田村麻呂に追い詰められた悪竜は滝馬室の常勝寺に逃れ桜の巨木に巻き付いたので田村麻呂は目を射抜いて退治したといいます。的祭はこの口伝にちなんだ五穀豊穣の祈願祭であり一時中断されていましたが貞享年間(1680年代)に島田常勝という人が復興し氷川神社の祭礼として現在に伝えられています。この祭礼は例年1月12日に地元の12歳の子供たちが葦の網代に蛇の目を描いた的に矢を射るという神事が執り行われます。
⑤阿弥陀堂
氷川神社を過ぎ畑の中に阿弥陀堂が有ります。ここも歴史が在りそうなことが墓石や石塔などに刻まれた「天正」や「寛政」などで知ることが出来ます。
⑥観音堂
馬室陸橋を越えると左側にポピー畑のある荒川左岸の河川敷に通じる道が有ります。この道は坂を下る途中で常勝寺の裏手にも通じています。坂に差し掛かる前左手に寂れたお堂が有ります。
馬頭観音が祀ってあるこのお堂もかなり古くからあるものと思われます。この前にある馬頭観音には「寛政七年」が刻まれていました。隣の小さな屋根付きの石像は観音像か?
道を挟んだ反対側にはかつては馬室中学校があったことが判る校門が残っています。「〇〇立」の〇〇に何が入っていたのか気になるところです。跡地は鴻巣市の公共施設となっています。
⑦常勝寺
常勝寺は真言宗智山派の寺院で瀧蔵山蜜乗院と号します。創建年代は不詳ですが七世紀の創建とも伝えられ、文明18年(1487)銘の古碑が残されていたとされています。徳川家康の関東入国に際して天正19年(1571)寺領15石のご朱印状を拝領し近郊に数多くの末寺を擁した中本寺格の寺院でした。また、坂上田村麻呂の悪竜退治の伝説にも関わりのある寺院でもあります。
本堂、山門、鐘楼、六角堂、薬師堂などの建造物や本堂横の日本庭園も見ごたえがあります。また歴代住職の墓石群の立ち並んだ墓地の景色もすごいものです。
変わったところでは太平洋戦争で犠牲になった陸軍の軍馬を祀った供養碑も境内の一画にあります。
⑧稲荷神社と庚申塔
常勝寺の山門を出て左側の坂道を上り元の通りに出ると庚申塔が目に入ります。何時の時代か読み取れません。その並びで赤い鳥居の小さな稲荷神社有ります。この神社は個人のものか付近住民の共用のものかはわかりません。
次も鴻巣地区が続きます。
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