「心からお詫びします」日本で発生したキツネの神様破壊
日本の超ハイレベルな職人技の映像に外国人も仰天!
今度は上野駅に近い湯島地区で摘発が相次いでいる。実は湯島は昔から追いはぎ被害が深刻な街。しかもある事情で対策にハードルがあったが、今年はそれを乗り越え、浄化に向かおうとしている
皇居の大手門付近の堀の水は 綺麗になってきた
嬉しくはあるが
桜田門・半蔵門付近は 残念にもまだまだ
浜松市中区のJR東海浜松工場で18日午前8時半から、敷地内で見つかった不発弾処理が始まった。同社は東海道新幹線の上下計54本で最大約40分の遅れを見込んでいる。東海道線も同時刻で部分運休する、不発弾は8月に工場敷地内で発見された。太平洋戦争時の米艦の16インチ砲弾で、信管が付いているが、直ちに爆発する危険はないという
大正9年、カリフォルニア州で第二次排日土地法が成立し、米国国籍を持つ日系2世、3世の名義で土地を取得することも禁じられ、日本人移民は農業から締め出されました、大正11年、連邦最高裁は、黄色人種である日本人は帰化不能外国人との判決を下しました、そして大正12年には州法ではなく米国全土の法律として排日移民法が成立し、日本人の移民は禁止されたのです。既に米国にいる日本人移民が親や妻子を日本から呼び寄せることも禁止されたため、日本人移民の家庭を崩壊させるものとなりました
わが国は国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を入れるよう提案しました。アジアやアフリカの人々や米国の黒人たちは感激し、例えば全米黒人新聞協会は「われわれ黒人は講和会議の席上で『人種問題』について激しい議論を戦わせている日本に、最大の敬意を払うものである」「全米1200万人の黒人が息をのんで、会議の成り行きを見守っている」というコメントを発表しました
先住民を虐殺してきた「白豪主義」の人種差別国家オーストラリアなどが強硬に抵抗しました。そこで、わが国は譲歩して、規約前文に「国家平等の原則と国民の公正な処遇」を盛り込むよう提案しました
日本人は排斥されていきます。米国には19世紀末から日本人移民が増えていましたが、サンフランシスコ地震があった1906年にカリフォルニア市は日本人移民の子供を公立学校から締め出しました、翌年にはサンフランシスコで反日暴動が起こります。その翌年には日米紳士協定が結ばれてわが国は移民を自主的に制限する代わり米国は日本人移民を排斥しないと取り決め、事態は収まるかに見えました、しかし米国は約束を破って1913年、カリフォルニア州で市民権獲得資格のない外国人(つまり日本人移民)の土地の所有や3年以上の賃借を禁ずる法律(排日土地法)が可決されました
ルーズベルトは自身が日露戦争前に作った海軍の対日作戦計画を発展させ、日本との戦争を想定した「オレンジ計画」という長期戦略をつくり始め、海軍力の増強に乗り出しました、計画は何度も更新され、日本の艦隊を撃破して、本土の都市を爆撃することなどが企てられていきました
米国がハワイやフィリピンを奪っているころ、わが国は日清戦争に勝ち、1895(明治28)年の下関条約で満州の玄関口である遼東半島を割譲されました。ところが清は約束に従わず、ロシアに泣きつきました。ロシア、フランス、ドイツはわが国に対して「東洋平和のため遼東半島を清に返せ」と迫り、ロシアの軍事的脅威を感じたわが国は屈服しました (三国干渉)
その後、「東洋平和」どころか、三国に英国も加わって清に群がり、相次いで領土を奪っていったのです。清はわが国から取り戻した遼東半島をロシアに貸し与え、満州はロシアの支配下になりました。このときはまだ米国の姿はありません
1904(明治37)年から翌年にかけての日露戦争でわが国はロシアを破りました。世界制覇を目指す白人国家を押しとどめたわが国の勝利は、白人に支配されている人々に独立への勇気と希望を与えましたが、米国はわが国を恐れました
日露戦争の講和を仲介したのは前回紹介したセオドア・ルーズベルト(共和党)でした。海軍次官からニューヨーク州知事、副大統領を経て大統領になっていました。ルーズベルトを親日家と言う人がいますが全くの間違いです。彼はわが国が国力をつけることを警戒し、講和条約のポーツマス条約でわが国はロシアから賠償金を得ることはできませんでした
中南米に武力をちらつかせる「棍棒(こんぼう)外交」で有名なルーズベルトですが、アジアでも、中国大陸を狙っていた米国にとって、ロシアに代わって南満州に進出した日本は邪魔な存在となりました