この人もようやく重い腰を上げたようだ。戦場カメラマンの渡部陽一(38)が東日本大震災の被災地域へ入り、フォトジャーナリストとして現地で取材活動を行っていることが分かった。
21日から被災地入りした渡部は岩手県宮古市や陸前高田市など被害が大きかった地域を重点的に取材。ツイッターでは「被災地の方々に少しでも元気をお届けしたいです
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この人もようやく重い腰を上げたようだ。戦場カメラマンの渡部陽一(38)が東日本大震災の被災地域へ入り、フォトジャーナリストとして現地で取材活動を行っていることが分かった。
21日から被災地入りした渡部は岩手県宮古市や陸前高田市など被害が大きかった地域を重点的に取材。ツイッターでは「被災地の方々に少しでも元気をお届けしたいです
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バブはせわしなく走り回り、尾を強く振って鼻をクンクン鳴らしたという。
赤沼さんが「散歩の時間にはまだ早いのに」と思いながら、玄関先で首にリードをつけていると、防災無線が大津波警報の発令を知らせていた。
田老地区で900人以上の死者・行方不明者が出た1933年の昭和三陸地震を体験した赤沼さんが「避難しなきゃ」と玄関を開けると、バブも勢いよく飛び出し、いつもの散歩コースと逆の高台へ向かった。
赤沼さんの歩みが緩むと、バブは振り返って歩みを促すようなしぐさを見せ、追いつくと勢いよく前へ出た。それを繰り返すうちに、自宅から約1キロ離れた避難所への急坂を一気に上りきっていた。
振り返ると、歩いてきた道は津波にのみこまれ、自宅も濁流の中に。普段は散歩も嫌がるバブの行動に、赤沼さんは「津波を予知してたのかも」と不思議がる。
世界中から支援集まる
欧州から支援物資220トン EU委員きょう茨城入り(3月25日)
ラーメンや菓子類を支援へ、水の対日輸出も急増 韓国(3月25日)
パキスタンから粉ミルクや飲料水 物資輸送機が出発(3月24日)
「今こそ伊達直人の出番」
「ランドセル、メガネの提供に協力を」自民・小池総務会長(3月25日)
ブロイラー、薬品など搬送
陸自出雲駐屯地から支援物資を輸送 島根(3月26日 02:36)
東日本大震災の被災地・仙台から寄稿させていただくことになりました。被災... といっても沿岸部に比べたら本当に小さな被害で済んだのですが、そんな中でも感じたことを伝えていければと思います。まず今回は、数日間の避難所生活と、そのあと家に戻ってからの被災生活で役立ったものについて。
●スノーボードウェア
仙台では被災当日に雪が降り、夜には氷点下となりました。下着、ヒートテック、ジーンズ、セーター、パーカーなどいくつも重ね着して、その上にスノーボードのウェアを着て寒さをしのぎました。壁が崩れて冷たい風が吹き抜ける部屋の中で、いま現在も着たまま仕事をしています。それから軍手、長靴も安全と防寒の両面で必須。
●懐中電灯
街灯がつかず、家庭の明かりもない街の中は想像以上に真っ暗。夕方以降に出歩く時、家の中から物資を引っ張り出してくる時、停電生活のあらゆる場面で役立ちました。慌てて避難したために持っていない人も多く、避難所で何度も貸してほしいと頼まれました。
●ブルーシート
床の冷えまでは遮ってくれないので、段ボールの上に敷きます。場所の確保にも重宝。ところでここまでのアイテム、すぐに揃えて避難所へ向かうことができたのはなぜかと思ったら、春先に行われる野外フェスに向けて準備してあったからでした。あらためて防災グッズと意識しなくても、音楽好きの方はフェスに向けた道具一式をいつも同じ場所に保管しておくだけでもだいぶ違うと思います。
●携帯ラジオ
ほぼ唯一の情報源。加えて、パーソナリティが語り掛けてくれる言葉でどれほど気持ちを落ち着かせることができたか。気になるのは電池の持ちですが、ずっと入れっぱなしだったアルカリ電池で1週間以上。携帯の充電器などで使用済みの電池でも丸1日以上動作しました。避難所には手回し充電式のラジオ兼ライトを持っている人も多かったです。あれ、すごく便利なので皆さん用意しておくといいと思います。
●エネループ(充電式電池)
まず直面するのが携帯電話のバッテリ切れ。親族や知人たちに繰り返し電話をかけ、何度もメールを送ろうと試みるもなかなかつながらない。気持ちだけが焦って余計にいじってしまい、どんどんバッテリが減っていきます。十分に電池を買い溜めしておけばよいのですが、こんな時に限って無いもの。今回はエネループに助けられました。その後、電気が復旧したエリアに住む友人に充電してもらってまた使えたのも充電池ならでは。
●塩(調味料)
避難所で配られる味気ないにぎり飯やお吸い物。最初は1日1食でも口に入れられるだけでありがたかったのですが、どうしてもひもじさを感じてしまいます。そんな時、塩で味を濃い目にするだけで満足感アップ。湯がいただけの野菜が配給されることもあるのですが、塩とオリーブオイルで十分に美味しくいただけました。
●酒
不謹慎かもしれませんが、事実、お酒には助けられました。何しろ家にあった食料はわずかで、日本酒、ウイスキー、焼酎、果実酒など酒だけはやたら豊富という状況。酔わない程度にチビチビと飲むことで、身体が温まるだけでなく、焦燥した気持ちが落ち着いていくのが分かりました。もっとも、これは個人差があると思いますが...。また、避難場所や状況にもよりますし、避難所では御法度です。
●氷砂糖
梅酒を作った余りで残っていた氷砂糖がこんな時に役立つとは。登山では血糖値を上げてくれるアメやチョコレートが欠かせないように、寒さと空腹の中で口に入れていると少しは安らげました。
●ウォーターサーバ
12リットル入りのボトルが3本あったおかげで、当面の飲料水には困りませんでした。空いたボトルは口を開けて給水にも活用。破損扱いでこのあと補償金を取られてしまうかもしれませんが、背に腹は代えられません。飲料水よりも生活用水のほうが大量に水を必要とすることも体験して分かったことの一つ。浴槽への貯水もよく言われることですがホントに重要です。
想像を超えるようなものは何一つありませんが、やっぱり過去の災害を教訓とした防災グッズは的を射ているんだなぁという印象。非常食や簡易トイレなども入った豪華なセットもありますが、避難所生活は助け合い、与え合いが前提。自分だけ十分過ぎる準備をしたところで、あまり意味がないのかなぁというのが正直な気持ちです。実際、僕も残っていた食糧やガスボンベなどほとんど拠出しましたが、その何倍も助けていただきました。
かつて明治、大正時代の電気事業黎明期に
現在よりも多くの電力会社が全国で営業しておりました
主に東日本ではヨーロッパ系・50ヘルツ、
西日本ではアメリカ系・60ヘルツの発電機を輸入していました。
その後、しばしば全国統一の努力が行われましたが、莫大な費用と時間がかかるために実現せず、現在に至っています。
原発事故作業員は
海王丸を宿泊所にしました
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