今日は啓蟄、冬眠していた虫も穴から出てくる季節、そんな日の前日、「ワカゲ」の皆さんと一緒に喜界島の地下をのぞいて来た。
まず、ビデオを見て概要を把握。次に地下トンネルに入る。地上には掘削した大きなドリルが展示してあった。蓄えた地下水を組み上げるための電力は大きな風力発電でまかなわれている。
地下ダムは全長約2,281M、その内、地上には「オオゴマダラ」(保護蝶)の生息地がある、366Mを地上部の保護のためトンネルにして工事をした。最大貯水量は3,047,000?
パンフレットには「地下水となって浸透し、海に流出していた水を地下に巨大なプール(琉球石灰岩の隙間に貯水)を造り水資源とした。大規模な地下ダムとしては国内2例目」とあった。これで飢饉に苦しんだ島民の大きな助けになり砂糖キビの生産が飛躍的に上がった。
「その地方に飢饉があった。アブラムは、その地方の飢饉がひどかったので、エジプトに下り、そこに滞在することにした。」 (創世記 12:10 )
カトリック名瀬教会(イエズスの聖心)
現在の聖堂は1965年12月19日に完成。祭壇は1964年、米国ワシントン大司教区・司教座聖堂 聖マテオ教会(1963年に暗殺されたケネディー大統領の葬儀ミサが行われた)から貰い受けたもの。
最初の名瀬教会は1922年に完成、レンガ造りで「レンガ聖堂」と呼ばれた。戦争中は当局に没収され、日の丸が掲げられていた。『聖堂の日の丸』参照、1945年4月の空襲で焼失。
二つ目の名瀬教会は、1949年8月完成。1955年12月3日の大火で全焼した。その後倉庫を改造した仮聖堂を経て、現在の聖堂が完成。
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。 (マタ 3:17 )
喜界島の東側「阿伝」(あでん)集落は喜界島でも古い珊瑚礁の石垣が数多く残るめずらしい地域である。台風の多いこの地域では珊瑚礁の石垣とガジュマルで家の周りを囲って、風の被害から家を守っている。新しい石垣はモルタルで補強しているが、古い石垣は形の違う様々な珊瑚礁を丁寧に並べて接着剤も使わずにしっかりと固定され数十年経過しても形が変わっていない。きっと腕の良い職人が造ったのだろう。場所によってはガジュマルの根が石垣をしっかりと抱えて固定されている所もあった。「明治7年の調査によれば、阿伝は村の貧富を論ずれば第一の富村とする」『喜界島風土記』。とあるから、財政的にも富んでいたからできたのであろう。
珊瑚礁の石垣に魅せられた観光客が写真を撮っていた。僕もつられてパチリ。
「ヨセフは実を結ぶ若木、泉のほとりの実を結ぶ若木。その枝は石垣を越えて伸びる。」(創世記49-22)
1982年6月19日、コンベンツアル会が「喜界ミッションセンター」として巡回教会を建設、糸永司教により祝別、福者マキシミリアン・コルベ(同年10月10日列聖)を保護者として献堂。1990年9月26日、ベタニア修道女会のシスター3名が修道院を開設、教会に常駐して宣教活動に従事、現在に至る。(出展:カトリック奄美100年、奄美福音宣教100周年記念誌)。その後、2007年1月末にベタニア修道女会が完全に撤退してからは、こどもたちの姿がめっきり少なくなってしまった。2007年7月には、司教を迎えて25周年のお祝いをした。現在、月に2回は名瀬から飛行機で来た司祭(空飛ぶ司祭?)によってミサが捧げられる。2008年4月から僕が留守を預かることになり、司祭不在の時は、集会祭儀を行っている。小さくても神の家には変わりはない。
喜界島空港から約500mの近さで、滑走路も近いが、ジェット機の轟音ではなく、プロペラ機のやさしい音が時々聞こえる。
「わたしは生い茂るオリーブの木。神の家にとどまります。世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます。」(詩編52-10)