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加納さんと一宮町

加納さん(加納久宜公)は、多方面で活躍しています。
では、そこに共通している思いは何なのか。
その今日の意味を、献花式(平成26年2月22日)を通して、皆様とともに考えたいと思います。

<最後の一宮藩主として>
加納久宜公は、今から150年前の慶応2年(1866年)に急遽養子となり、
弱冠19歳にして一宮藩藩主となりました。
折しも激動の幕末を迎えますが、領民を混乱に巻き込ませることなく乗り切りました。

<明治期の多方面での足跡について>
明治維新の後は、東京で学生生活を始めます。
やがて、明治時代を通して各方面で活躍しました。その足跡(*)に、今注目があつまり始めています。

例えば、加納久宜公は、鹿児島県では明治27年(1894年)からの6年間の業績により「教育知事・勧業知事」として、今でも有名です。
皆が学びあおう、最新の知識や技術を活かし産業を盛んにしよう、県全体を衛生的で豊かにしようと、率先して取り組みました。
当時の鹿児島は吏党(中央集権、与党系)と民党(自由民権、野党系)に分裂していがみ合っていましたが、生産や教育福祉などの目標を示して団結させて、活力を地域の活性化に向けさせたのもその手法の一つです。

また、
城南信用金庫、日本体育大学、日体荏原高校などでも
その功績が語り継がれています。

今後、さらに多くの方々から注目されていくことと思っています。

<一宮町長として>
あわせて、一宮のことも忘れていませんでした。
明治の終わりには住まいを一宮に移し、婦人会や青年会を組織するなどの取り組みを始めています。
明治42年(1909年)には当時の町長に対して、「町是(町の総合計画)を定め計画的に町政をすすめていくべきだ(町是を定め置くべきの議)」という提案もしています。
そのようなことから、今から100年前の明治45年(1912年)に、町民有志からの懇願を受けいれ町長となりました。
そして、自身が理想とする町村経営を実現する試みをしました。

存命中の大正7年(1918年)に『紀徳碑』(現在は振武館前に移設)に建てられたました。
後藤新平内務大臣の文からも、その取り組みが全国から注目されたことをうかがい知ることができます。

<墓参について>
加納久宜公の墓は、東京の谷中霊園にあります。
そして、町民の熱望により分骨され、耕地整理された田を見下ろす城山に安置されました。
後々粗末に扱われるのではないかという心配もあったそうです。ですから、大切にしていきたいと思います。
加納久宜公の命日に花を手向けることを通して、皆で「加納さん」について考えたいと思います。
どうぞ、よろしくお願い申し上げます。

*教育、産業振興(農業、産業組合、馬匹改良等)、地方自治、国政(貴族院)、衛生福祉(赤十字)、文化活動、司法(大審院)等々、幅広い足跡は一言では十分に語りつくせません。
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