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二条城6 旧二条城石垣、土蔵、南中仕切門

2025年01月28日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 二条城本丸の西口から西橋を渡って外郭の園路に出て、そこから左寄りの西へ進むと、上図の小さな石積みの遺構があります。

 

 案内説明板には、旧二条城の石垣を移築保存したものである旨が述べられています。旧二条城とは、織田信長が足利義昭のために建造した「武家御城」と記載される城館を指し、現在の二条城とは違う場所にありました。

 この旧二条城を訪れたルイス・フロイスの著書「日本史」によれば、城の範囲は三街分あったこと、石材に石仏や石塔を用いたこと、つり上げ橋のある堀をもつこと、この堀に3箇所の入口があったことなどが記載されています。

 

 旧二条城の位置は、京都御苑の西側で、その規模は現在の町名でいうと上京区の両御霊町、御霊町、近衛町、桜鶴円町のあたりに該当します。現地は市街地化しているため、遺構は地下にしか存在していませんが、これまでの数次にわたる発掘調査によって様々な遺構が検出されています。

 主な遺構としては、北辺の外堀、北辺の内堀、南辺の内堀、南辺の外堀とみられる部分が確認されており、それぞれの堀には転用石を多用した石垣が使用されています。上図はその石垣の一部を移築して保存公開しており、同じ種類の移築石垣が京都御苑の椹木口(さわらぎぐち)近くにもあります。

 

 石垣に多く使われた転用石というのは、多くが中世の石造品で、上図のような五輪塔の火輪部や石仏がみられます。中には古代の礎石とみられるものもあり、一部は平安期の宮城建築のそれではないかとされていますが、確証はありません。

 

 石垣に含まれる転用石を見てゆくと、五輪塔の火輪部が多数を占めているのが分かります。三角形をしているため、据え付けるのに適していて、石垣の基部に多くが埋め込まれています。多くは風化摩滅がみられ、石垣の材料として運ばれてきた時点で相当の年月を経た古いものであったことを伺わせます。嫁さんが言いました。

「織田信長の頃の京都って、あんまり石材が無かったんですかね、周りの山にも石切り場ってあんまり見かけないですしね・・・」
「そうやな。豊臣政権期の築城でも四国とか紀州とかの遠隔地から石材を調達してるしな」
「五輪塔や石仏なら幾らでもあったんでしょうけど、応仁の乱とかでも徴発されてたりして転用されてますよね」
「うん、信長が始めたことじゃないからな。戦国期にはどこでも似たような転用例があったし。古墳の石棺まで石垣に利用しちゃってるケースもあるし」
「五輪塔が多いのは、五つの部品から成っててバラしやすくて、割と小さいから運びやすかった、ていうのもあるんでしょう」
「そういうことやろうな」

 

「例えばこれや。五輪塔の火輪やけど、なにか後から彫り窪めて加工した跡がある。石垣に転用される前に、何かに転用されてたような感じやな・・・」
「言われてみれば、そんな感じですねえ、あちこち打ち欠いたような感じですねえ」

 

「あの長方形の石はなんですかね?」
「これか」
「ええ、何かの石材みたいに見えます・・・」
「うん、石仏や五輪塔ではないな。真ん中に突起を造り出してあるんで、礎石なのか、それとも組み合わせるための石材かもしれん」
「橋とかの脚の部分?」
「あー、それらしくも見えるねえ」

 

「こういう石垣の石の積み方って、野面積み(のづらづみ)と呼ぶんですかね?・・・それとも、乱積み(らんづみ)でしたっけ?」
「これは野面積みやな・・・」
「あのう、野面積みと乱積みってお城の本とかで見ると、なんか似たようなものに見えるんですけど、見分け方ってあります?」
「この石垣の積み方を見てみい、石を積むときに、似たような大きさの石を下から順に重ねて積むと、大体は石の並びが横にまっすぐになるんで、横のラインが見えてくる。これもそうやから、下から一段、二段、三段、四段目まであって、左側だけ五段目も残ってる」
「うん」
「乱積みやと、石の大きさを合わせないでそのまま不規則に積み上げるから、横のラインが、これ目地というか継ぎ目なんやけど、そういうラインも無くなる。そこが識別点かな」
「つまり、綺麗に重ねて積んであるかどうか、ということですね。重ねてあったら野面積みで、不揃いやったら乱積み、とみたらええんですか」
「大体はそういうことになる」
「技術的にはどっちが新しいんですか?」
「乱積み。不規則に積みつつも崩れないように固めて堅固に築くんで、専門の石工ならばでの高い技術力が必要になる。中世戦国期にはあんまり見ない。織田豊臣政権期の城から見られ始める」
「ふーん」

 

「これ、発掘された遺構を移築してるってことですけど、元々この規模の小さな石垣なんですかね?」
「もとの石垣の規模よりは小さくなってるやろうな。堀の石垣やったらしいが、堀が空堀であれ水堀であれ、この高さでは足りん。もう少し高く積んであったんやろう、思う」
「上半分ぐらいが無くなっちゃってるわけですか?」
「たぶんな。旧二条城は足利義昭の居城やったが、信長による義昭の追放で廃城となって破却して、石を安土城へ運んだりしてるから、石垣もそのまま残されたとは考えにくいからな」
「じゃあ、これは、破却された後に残ってた石垣ってことですかね」
「そう見たほうがええんやないかな」

 城郭の石垣についても熱心に実際の遺物を観察し、私との質疑応答で得られた知識をきちんとメモする嫁さんでした。もともと歴史が好きで、文化財に対する好奇心が旺盛で、向学心も豊かな、賢いモケジョさんです。

 

 それから園路に戻って南へ向かい、上図の南米蔵の横を通りました。

 

 その南米蔵の案内説明板です。嫁さんが一通り読んだ後に訊いてきました。

「この米蔵、国の重要文化財になってますけど、文化財の公開義務とやらによって内部とか一般公開されたことはあるんですかね?」
「さあ、どうかなあ、公開されたって聞いたこと無いなあ。櫓や門は時々に特別公開があったりするけど、これらの土蔵は公開の必要が無いから対象外になってるんじゃないかなあ・・・」
「そうなんですか・・・、いっぺん中を見たいなあ、と思ったんです・・・」
「土蔵の中、ていうても格段変わったものでもないよ。普通の土蔵と同じ内部やで」
「そうなんですか・・・」

 

 それから本丸の水濠に沿って南側へ回り、梅林の中を進んで東へ行くと、石垣で仕切られた場所があり、道が左にクランクして上図の城門が構えられています。いわゆる「埋門(うずみもん)」形式で、本丸の外郭の東西の防御線の要となる中仕切門の一種で、これは南側にあるので南中仕切門と呼ばれます。寛永の本丸築城時の遺構で、国の重要文化財に指定されています。

 

 南中仕切門の案内説明板です。嫁さんが「埋門の形は姫路城が有名で、高松城にもある、て書いてありますけど、どっちも実際に見てますの?」と訊いてきました。大きく頷いておきました。

「姫路城のは、確か「る」の門やな。ここの門と違って石垣の中に小さく目立たないように造ってある。高松城のも同じタイプやけど、板戸がついてて通れへんかった気がする」
「他の城にもあるんですか?」
「いっぱいあるよ。石垣の切れ目に門を置いてるのは大体埋門タイプやで。ここ二条城でも、本丸の東西の虎口の内側の「御門」が多聞櫓の下の石垣にはさまれてる形やったから、それも埋門タイプになるな」
「あ、そうなんですかー」

 

「この門は、どっちが正面になるんですか?向こう?」
「そう、向こうが正面。こっちは城内側になるから内側になる。門扉もこっちに開いてるやろ」
「あっ、そうか、そういえば城門の扉は内開きですもんね・・・」

 

 それで門扉の表側に近寄って、上図の潜り戸を確認する嫁さんでした。
「あー、この扉も表に引手、把手が全然ありませんねー、扉を動かしたくても手をかける所が無いー」

 

「この門の蝶番も立派ですねー」
「しかも錆が表面だけでしっかりしてるやろ、鍛造の際に鋼を組み合わせて錆びにくい質の鉄に鍛えてる」
「ですねー、なんか、かっこいい・・・」

 

「あと、屋根も見ておいてくれ、ここのは招造(まねきづくり)と言ってな、屋根は切妻造りやけど、棟(むね)から下がる片方を長く造って、もう片方を短く切ってある。ほら、正面の屋根が短い。その下に庇を付けてるから屋根が二重に見えるやろ・・・」
「ええ、屋根が二重に見えますねえ、下のは庇で、上が屋根なんですね、招造ですか・・・」

 そう言ってメモに書いて、再び「まねき、づくり」と復唱して覚えていた嫁さんでした。  (続く)

 


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