井川駅の駅名標です。現在は上図のように左下が「終着駅」となっていますが、昔の写真では「どうだいら」となっています。いまは廃線小径としてハイキングコースになっている線路が、いまは土砂置き場になって埋められてしまった堂平駅まで続いているからです。
その線路は去年まで休線扱いとなっていましたが、今年の春にとうとう井川駅から通じるガーター橋が撤去されて正式に廃線となりました。
駅名標とホームと屋根と列車の写真です。Nゲージジオラマ製作用の資料画像として撮りました。この撮影位置の右側に、撤去されてしまったガーター橋が架かっていました。
今年春に撤去されたガーター橋の橋脚です。かつては下の車道をまたいで井川駅からの貨物列車や資材運搬列車が橋を渡り、上図の扉で占められているトンネルをくぐって堂平駅へ行き来していたのです。
こちらがわの橋脚部分を見ました。前回の井川駅行きで、まだ架かっていたガーター橋を見ていますので、なにか空しい気分に襲われました。当時のレポートはこちら。その7枚目の画像が、ありし日のガーター橋です。
ガーター橋は撤去されましたが、それに続く線路はまだ残されていました。
残された線路から無くなった橋の向かいのトンネルの閉鎖扉を見ました。前回の井川駅行きで井川地区のゆるキャン聖地を回り、廃線小径をたどって井川駅まで戻りましたが、その際にトンネルの中に列車が駐機しているのを見ました。当時は線路はトンネルの向こうで切れていましたが、井川駅からの線路はそのまま橋を経て続いていたため、トンネルを車庫代わりにして使っていたと聞きました。
その景色もいまはもう見られなくなりましたが、Nゲージジオラマのほうでは橋も車庫代わりのトンネルも再現してみようかと考えています。ただ、そのレイアウトがベースにおさめられるかが問題です。
残された線路の西側も切れていました。以前はそこにポイントがあったのですが、本線の列車の通行を安全ならしめるために線路を単線に切り替えたのに伴って撤去されたようです。それで、ホームから駅改札口へ続く踏切だけが残されています。
ポイントの跡です。ここでも空しい気分になりました。こうやって失われて再び還らぬものがあるのだな、と思いました。
前回の井川行きで、トンネル内に待機していた列車がここのポイントを通り、いったん向こうのトンネルへ入った後、引き返してホームに入ってゆくのをみた記憶があります。
なので、この廃線部分に関しては、Nゲージジオラマでどうしようかと迷っています。現在の状態で再現するか、それとも線路もガーター橋も運用されていた頃の様子を再現するか、です。
ホームから続く屋根は、線路の踏切の上で一段高く造られています。列車の通行を安全にするべく高さをとって、大きな荷物を運んだ列車でも通れるように配慮したのでしょう。
御覧のように、線路をまたぐ屋根のほうが古いようです。ホームの屋根よりも以前に造られていたのでしょう。
踏切の上の屋根の全容です。ホーム側が僅かに高く見えるのは気のせいでしょうか。それとも実際に僅かながら傾斜が付けてあって、雨水がスムーズに一方へ流れるようにしてあるのでしょうか。
残された線路と踏切です。橋とポイントを撤去したさいにこれらも撤去してしまいそうなものですが、記念に残してあるのでしょうか。
廃線の脇にあった駅舎の建物の東側の様子です。清掃用具やシンク、ゴミ箱などが置いてありました。
駅のトンネル側の線路わきにも駅名標があり、御覧のように石積みやブロック積みの擁壁が崖面を支えています。大きな岩が露出している所もあります。井川地域の土壌には岩や岩盤が多くてしかも脆いので崩れやすい、と聞いたことがあります。
そんなところに鉄道を通したのですから、敷設当時は岩や岩盤との戦いの連続で難工事続きだったといいます。井川線の前身の中部電力専用鉄道が、艱難辛苦を乗り越えて開通にこぎつけたのは、当時のダム建設や森林開発用の鉄道の設置が国策つまり国の事業として見なされて膨大な費用が投下されたことも大きく影響していたそうです。 (続く)