奥大井湖上駅を出て5分ぐらいした時、列車がゆるやかに減速をはじめ、次の停車駅の案内アナウンスが車内に響き渡りました。
それまでほぼ直線のコースを走っていたのが、大きく右にカープして次の駅、接岨峡温泉駅の構内に進んでいきました。
接岨峡温泉駅のホームに入っていきました。御覧のようにホームの両側に線路が敷かれていて、上下の列車の行き違いが出来るようになっています。
10時35分、接岨峡温泉駅に停車しました。駅名標が見えたので撮りました。
ここで後ろの客車から最後尾のDD20形機関車までの3輌を分離しました。向こうの列車の車掌さんがテキパキと分離作業を行い、前後の確認を行い、こちらの井川行きの列車の車掌さんに手を挙げて合図していました。
この接岨峡温泉駅で、殆どの乗客が降りたようで、私の乗っていた客車スロニ202には、ついに私だけになりました。つまりは終点の井川駅まで客車1輌を独占貸し切りとなったわけでした。
接岨峡温泉駅を出た後は、しばらく深い森の中をくねくねと曲がりながら進みました。大井川は蛇行しているのでこの区間では遠くに離れていて、林間に見え隠れしていた川の水面が全然見えませんでした。
接岨峡温泉駅からは一気に山奥の秘境に入っていく感があり、車やバイクで井川方面へ向かった場合でも、接岨峡温泉駅前を過ぎてからが細くてカーブが多くて落石もある険しい道になります。ゆるキャンアニメ3期でも「地獄のデスロード」と銘打っていた道です。
途中で右手に立派な金属製の吊橋が見えました。まだ真新しい感じで、おそらくは平成の頃に架けられたものか、と推測しました。井川線の線路に沿って山道があるようです。林業の作業道なのか、中部電力の保守点検路なのかは分かりませんが、こんな山奥に道があるのか、と驚きました。なんだか気になってしまいました。
後日、地元の根本地誌資料である「川根本町誌」を調べたところ、平成14年に完成した長島ダムの計画に伴う集落移転などの地域衰退を防ぐ目的で行政がまとめた付近の地図があり、ちょうど吊橋のあった辺りに印があって「接岨峡遊歩道」なる記載がありました。これは名前からして接岨峡温泉から、旧接岨峡温泉に至るエリアをめぐる観光用の散策路であったもののようです。
平成14年といえば、約20年前になります。上図の吊橋もだいたいその頃に架けられたような感じで違和感はありませんでした。吊橋とともに、井川線に沿って「接岨峡遊歩道」が付けられたようですが、そうすると次の尾盛駅にもこの「接岨峡遊歩道」が連絡していたのかな、と思いました。
もしそうならば、尾盛駅はいま道も通じていない秘境の駅と言われていますが、かつては「接岨峡遊歩道」で普通に行けたわけですから、昔は道が通じていたことになります。
吊橋を見てから先は地形がだんだんと険しくなっていきました。線路の下は殆ど崖で、目もくらむような高さでした。はるか下に大井川の水面がチラチラと見えました。吊橋から続く山道が見えるかな、と思いましたが、ずっと崖が続いているので、こんなところに道があるわけはない、と考えたりしました。
列車はまもなく大きく右にカーブして、木立の切れ目の明るい平坦地へと進んでいき、減速を始めました。
ああ、あの廃屋みたいな木造の小屋は尾盛駅の作業小屋だったかな・・・。
10時43分、尾盛駅に着きました。上図のように線路とホームとが離れています。ホームはかつての貨物用ホームで、駅のホームは列車の反対側にありました。貨物用のホームには、昔は貨物線の線路が敷かれていたそうで、井川線にて貨物の取り扱いがなくなった際に撤去したのだそうです。それで現状はホームと線路の間があいた状態になっています。
約30秒ほど停車しましたが、乗降客はありませんでした。いまでは道が通じておらず、付近に民家も無いという秘境の駅です。が、鉄道ファンや秘境ファンの間では人気があるようで、年間約500人ほどの乗降客がいるそうです。
聞くところによれば、尾盛駅の周辺には、かつては井川ダム建設関係者の多数の宿舎や民家や小学校もあったそうで、それらの廃屋や施設跡や敷地跡の石垣など現在も残っているそうです。廃墟マニアなどがそれらを見物しようと、井川線に乗って訪れるそうです。
尾盛駅を発車しました。貨物用ホームの上には、いわくありげな信楽焼のタヌキが2体、駅名標、熊出没時の避難小屋を兼ねた保線員詰所がありました。 (続く)