高山寺の金堂と茶園を見た後は、国宝の石水院に向かいました。もと来た参道の一番南側に位置しますので、境内地の南端にあたります。行きで登った急な階段、重なる石垣の列は、石水院の敷地の南側の崖面にあたります。
石水院は、寺では五所堂とも呼ばれています。高山寺の中興開山である明恵上人の住房跡と伝えており、現存の建物は鎌倉期の遺構で、もとは東経蔵として金堂の東にあったものです。安貞二年(1228)の洪水で石水院が流されて無くなったため、その後に東経蔵が新たな石水院として整備され、春日明神・住吉明神を祀る場所としても機能していました。それを、明治二十二年(1889)に現在地に移築し、現在に至っています。
上図は石水院の山門です。これをくぐって中に入りました。
山門を入ると、正面に上図の中門があります。左脇に丁石(ちょうせき)が建てられており、かつての参詣道の終点にあたっていたことを伺わせます。
丁石とは、寺社への参詣道に沿ってほぼ1丁(109メートル)ごとに立てられた道標のことで、石水院がかつて春日明神・住吉明神を祀る場所として知られ、中世から近世にかけて多くの信者や参拝客がやってきた歴史をしのばせます。
現在は中門は閉鎖されています。かつては石水院の西面の内陣の春日明神・住吉明神の拝所への入口として機能していましたが、明治期の神仏分離によって春日明神・住吉明神が他へ移られていますので、西面の内陣は改造されて一つの部屋になっています。それに伴って中門も閉じられたわけです。
石水院の案内説明板です。
五所堂に隣接する客殿・庫裏部分の建物です。拝観受付があり、そこから中に入って五所堂に回ります。高山寺においては五所堂とこの客殿・庫裏を合わせて石水院と称しているようです。
庫裏から廊下で五所堂へと向かいました。御覧のように五所堂は南に正面を向けていて、庫裏はその北側に隣接していますので、庫裏からは五所堂の背面の姿が見えます。
もとは東経蔵として建てられたので、本来は経蔵としての姿であるはずですが、高山寺のそれは住宅風の外観を示します。背面も上図のような雅な杮(こけら)葺きの入母屋造で、寺院の小型の仏堂のような雰囲気があります。内部は住宅風に造られており、鎌倉期初期の寝殿造の特徴を残している点でも貴重な建築遺構として、国宝に指定されています。
客殿からの通廊は五所堂の廻縁の北西隅に連絡していますので、右側には上図のように西側の庇と前庭、中門からかつての拝所へ通じる石畳道が見えます。
通廊の突き当り、五所堂の北西隅の柱に掛けられた「国宝 石水院」の木札。大きめのサイズの分厚い板で作られ、なにか誇らしげに掛けられています。国宝の国の字が旧字体なので、戦前からの木札でしょうか。
拝観順路とは逆方向でしたが、嫁さんが「ちょっと覗いてみます」と言って西側の「落板敷」と呼ばれる板間を見ましたので、つられて私も覗き込みましたが、以前と変わらぬかつての拝所の空間が保たれているだけでした。
西面の様子です。中央の間口内がかつての内陣で、そこに明治期の神仏分離以前まで春日明神・住吉明神の神影が祀られていたのでした。それを拝むための拝所がこの広い「落板敷」です。
神仏分離にて春日明神・住吉明神が他へ移された後は、その代わりのように、上図の小さな善財童子像が安置されていますが、内陣ではなく、拝所の「落板敷」のほうに置かれています。
これは、明恵上人が華厳宗の僧であり、根本経典である華厳経にて求法の旅が語られる善財童子を敬愛したという伝承に基づいています。
石水院の前身である、明恵上人の庵室には、壁に善財五十五善知識の絵が掛けられ、善財童子の木像が置かれていたと伝わります。それを再現すべく、普化宗の虚無僧で木彫をよくした西村虚空(にしむら こくう)さんが石水院に滞在した時期に製作したのが、いまの小さな善財童子像です。
西村虚空さんは尺八の演奏家として有名な方で、私も平成の始めに京都の演奏会で直に拝聴したことがあります。中国の神境の老貴人を思わせる仙人のような独特の風貌にも驚かされましたが、その尺八の凛として清浄たる音色に感動させられた思い出があります。平成十四年まで健在であったと聞きましたので、京都の方で西村虚空さんを覚えておられる方は大勢いらっしゃることでしょう。
その西村虚空さんがここに滞在していた時期、毎日の尺八修業の合間に眺めていたであろう境内地の景色は、いまも変わっていないのでしょう。
2018年の台風被害による大量の倒木は、金堂付近のエリアと表参道に沿った区域にて顕著であったそうですが、ここ石水院の範囲では倒木がほとんど無かったと聞いているからです。 (続く)