気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

伏見城の面影22 養源院へ

2024年09月14日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 長楽寺を辞して、その山門の南隣の通用門から上図の大谷祖廟(おおたにそびょう)の境内地を通りました。大谷祖廟は、真宗大谷派本山の真宗本廟(東本願寺)が所有する墓地で、浄土真宗の宗祖である親鸞の墓所です。浄土真宗では親鸞の墓所を「御廟」と呼び、大谷祖廟一帯を「東大谷」と呼ぶそうです。

 

 大谷祖廟の広い境内地と長い参道を西へと下りました。この広大なエリアももとは長楽寺の境内地であったそうですが、延享二年(1745)に、江戸幕府が1万坪の境内地を没収し、これを大谷祖廟に寄進したことにより、現在の状況になったということです。

 

 それから祇園のバス停へ行って市バス206系統に乗り、博物館三十三間堂前で下車し、三十三間堂の東の道を南下して上図の養源院南門前に着きました。

 

 門前には上図の巨大な「血天井」の立札が建っています。
 U氏が「こういうの、遊園地のお化け屋敷の看板みたいな俗っぽい感じでダメだな、血天井見たいか?見たいなら入って来い、て誘ってる安っぽさがダメだな、な、思うだろ・・・」と話していました。

 

 こちらは養源院の正式な説明文。伏見城の遺構を用いて再建された、とあり、何らかの史料もしくは関連資料が伝わっているのかもしれません。U氏も「ここの建物は徳川家の全面支援で再建してるから、伏見城の遺構ってのも本物なんだろうねえ」と期待感を示していました。

 

 養源院は、豊臣秀吉の側室であった淀殿が、父の浅井長政の追善を願って、長政の二十一回忌にあたる文禄三年(1594)に建立し、長政の戒名の養源院をもって寺号としたのに始まります。

 その後、元和五年(1619)に落雷で焼失しましたが、二年後の元和七年(1621)に淀殿の妹で二代将軍徳川秀忠公正室の崇源院(お江)が再建を切望、徳川家の菩提所として歴代将軍の位牌をまつる寺院として再出発しました。
 現在の寺観は再建以来のもので、平成二十八年に本堂(客殿)、護摩堂、中門、鐘楼堂、南門の5棟が国の重要文化財に指定されています。そのうちの本堂(客殿)は旧伏見城の遺構を用いて再建されたといい、伏見城の戦いで鳥居元忠以下が自刃したの廊下の板の間を供養のために天井となしています。

 南門からは緩やかな登りの石畳参道が、あおあおと空をも覆う若葉の下を本堂式台まで続いていました。

 

 本堂式台の前庭には、桜が咲いていました。U氏が「うん、いい景色だ。徳川葵の御紋も見えるし、まさに徳川家の聖域のひとつ、って雰囲気だな」と満足げに呟きました。水戸藩28万4千石の末裔ですから、江戸幕府黎明期の姿を伝える養源院の歴史的空間に感動しているようでした。

 

 「で、あれが本堂の客殿か。旧伏見城の建物か。なかなか立派な屋根の妻飾りだな」
 「そうやな」
 「周りの木が大きく育ってるので、建物の全容がいまいち見えないな」
 「そうやな」

 

 そこで式台に向かって左側の、あまり見学客が行かない場所へ回ってみました。寺務所が奥にあるのか、関係者の車らしいのが数台停めてありました。
 そこからは、客殿とその北に伸びる部分がよく見えました。

 

 縁側の下に近寄ってみました。高い柱、深い軒先、客殿の北側は屋根が一段低くて扉も蔀戸とし、客殿部分の板戸障子との区別が図られています。書院造の客殿とそれに繋がる副殿の典型的な外観が示されています。寺院の客殿はもっと屋根が低くて間口も狭いのが普通なので、この建築は寺院よりも寸法を大きくとる御殿建築の典型的な様相を伝えていると言う事が出来ます。

 

 客殿の主屋部分の外観です。周縁が無く、戸口を障子戸で統一する点は、慶長八年(1603)に徳川家が築造した二条城の二の丸御殿の大広間や黒書院と共通しますが、雨戸が付く点や長押の上の壁を板張りとする点は古式です。

 なので、徳川期再建伏見城の建物を移築したものであれば、その建設時期が慶長六年から慶長七年まででありますから、現存の二条城御殿とは一年しか違わない、ほぼ同時期の建物であることになります。

 

 したがって、この養源院本堂が正しく旧伏見城建築であるかどうかは、二条城御殿を参考にして比較すれば分かると思います。見ればみるほど、よく似ています。相違点を探すほうが難しいです。同時期に徳川家が建設した御殿建築ですから、似ていて当たり前だと思います。

 

 ですが、上図の花頭窓(かとうまど)の古そうな枠が外された状態で縁の下に置かれているのには、ちょっと違和感を覚えました。U氏も同じように頭を傾げていて、「これもかつての建築の部材なのかね?」と言いました。

「こういう花頭窓って、城郭の御殿や客殿には付いてるものなのかね?」
「うーん、現存してる掛川、川越、高知の御殿には無かったと思うな。二条城の二の丸御殿にも無かったと思うが」
「だよな、寺院の書院になら付くだろうけど、ここの本堂はもとは城郭御殿だからな、本来は無かったんじゃないかな。この枠はどこかで後世に追加したものを、修理工事の時に撤去したんと違うかね?報告書とかも出てるんじゃないのか?」

 U氏の推測は当たっているかもしれません。養源院本堂は、昭和六十一年(1986)に京都府指定文化財に指定されており、その建造物群に関する報告書が平成二十七年に京都伝統建築技術協会より刊行されています。機会があれば、その報告書を読んでみたいものです。  (続く)

 

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