ゆるキャン群馬キャンプ編の安中市エリア聖地巡礼、「アプトの道」の続きです。
第六トンネルを抜けると前方に橋梁が見えましたが、これまで渡ったどの橋よりも長さがありました。これがあの有名な「めがね橋」こと第三橋梁だな、と気付きました。
橋のたもとの右側の平場に寄ってみました。上図のように長く、そして高い立派な総レンガ造りの橋梁の姿が見えてきました。おおお・・と思わず声が出ました。全国各地で色々な明治期のレンガ造り構築物を見てきましたが、これほどの雄大な規模の橋梁を見るのは初めてだったからです。
第六トンネルの横川側に、第三橋梁の下へ降りる階段がありましたので、降りていきました。第三橋梁の下を国道18号線旧線が通っていて観光駐車場もあるので、連絡路が設けられていて、壮大な橋梁を下からも眺める事が出来るからです。
連絡路の脇に立つ案内説明板。使用されたレンガは200万個以上・・・、凄いですね・・・。
連絡路は橋の下をくぐります。その際に見上げると、御覧のような迫力です。明治の半ばにこんな大きなレンガ造りの橋梁を作ってしまうのですから、文明開化以降の富国強兵、殖産興業のスローガンに象徴される近代日本のすさまじい活力と向上心と弛みない努力のさまが偲ばれます。凄い、素晴らしい、という他に言葉がありません。
「めがね橋」の通称で知られる碓井第三橋梁は、旧信越線のレンガ造り橋梁のなかで最大の規模を誇ります。全長は約91メートル、高さは約31メートル。ゆるキャンでもおなじみの大井川上流のあの畑薙大吊橋が同じ高さでしたが、吊橋とレンガ造り橋梁とでは外観が全然違います。こちらのどっしりとした重量感、ガッシリとした堅牢感、度々の地震にも揺るがなかった安定感、どれをとっても「めがね橋」のほうが勝っていて見応えも充分です。
この第三橋梁は、信越線敷設工事の最初に作り始められたようで、他の施設よりも早い明治二十四年(1891)12月に竣功しています。これだけの規模の橋ですから、工期も長く見積もって早めに構築されたのでしょう。
上図のアングルでゆるキャン第90話の表紙イラストになっています。原作コミック第16巻56ページです。
このイラストですね。連載当時はカラーだったと思います。瑞浪絵真がスマホで撮影しています。
瑞浪絵真が撮影していた場所です。左の横断歩道を渡れば「めがね橋」の下をくぐって階段を登って橋の上の「アプトの道」に行きます。歩道を手前方向へ進むとバス停があり、200メートルぐらい登っていくと観光駐車場があります。
この谷間には、御覧のとおり碓氷川が流れています。今回の「アプトの道」の全コースのなかで最も広くて深い谷でした。
碓氷川の標識から国道18号線旧線を横川側に約50メートルほど進んで振り返ると、上図の景色になります。このアングルも作中に出ています。
このシーンですね。原作コミック第16巻72ページ1コマ目です。各務原なでしこ達は軽井沢駅からタクシーで移動し、運転手さんの好意により熊ノ平駅跡に寄っていますが「めがね橋」にも立ち寄ったことが分かります。タクシーはたぶん観光駐車場で待機していたのでしょう。
どこから見ても絵になる、立派な鉄道橋梁です。国の重要文化財に指定されるだけあって、他に類例を見ない規模のレンガ造り四連アーチ橋梁です。
このような綺麗なアーチが並ぶ古い橋梁の文化財といえば、個人的には長期出向で九州に住んでいた時期に熊本県の知人に連れられて見に行った、阿蘇郡小国町の旧国鉄宮原線の幸野川橋梁を思い出します。あちらは六連アーチで全長は116メートルでしたが、コンクリートの骨格に鉄ではなく竹を用いた、竹筋コンクリート造りと呼ばれる珍しい構造で、国の登録文化財に指定されています。
しばらく立ち止まって見上げていましたが、全然見飽きません。魂に響く不滅の建築、とはこういう建物を言うのでしょう。
旧線のバス停に寄って見ました。「めがね橋」から約50メートルの場所にあります。指定期間の土日にのみ軽井沢駅と横川駅を結ぶバスがここにも停まります。バス停からさらに150メートルほど離れると観光駐車場があります。
旧道脇に立つ、古い方の案内説明板です。昭和四十五年の設置で、現地がまだ碓氷郡松井田町だった頃に立てられています。
平成八年(1996)の夏、大学時代の群馬県の知人に誘われて、彼の地元である碓氷郡松井田町へ行き、彼の実家が氏子になっている妙義神社に参拝したことがあります。その後、横川駅の横を通って坂本宿の街並みと碓氷関所跡にも行きました。その帰りに「峠の釜めし」も食べたと記憶しています。
当時はまだ「アプトの道」はありませんでしたから、旧信越線跡のトンネルや橋梁の遺構は見に行っていませんでしたが、もし行っていれば、「めがね橋」ぐらいは見られたのだろう、いまと変わらない姿に圧倒されたのだろう、と思います。 (続く)