大徳寺龍源院の書院の床の間には、火縄銃の他に上図の立派な碁盤も展示されていました。碁筒の蓋には家紋が打たれていますが、片方はどう見ても徳川葵のようでした。
説明板を読んで納得しました。豊臣秀吉と徳川家康が伏見城内で対局したさいの碁盤でした。さすがに京都の寺にはさりげなくえらいものがあるなあ、と横でU氏が感心していました。そして私に訊いてきました。
「初代本因坊って算砂(さんさ)だったっけ、囲碁の一世名人のことだろ、大徳寺に縁があった人なんかね?」
「どうやろうねえ、本職は顕本法華宗のお坊さんだったから、臨済禅のここと接点があったんかどうか、やな。分からんね・・・」
書院から本堂の方丈へ進みました。左前方がひらけて上図の前庭が見えてきました。
前庭「一枝坦」の説明文です。龍源院の前身の「霊山一枝軒」の前庭であった由緒によってこの名がつけられていますが、開基の東渓宗牧(とうけいそうぼく 大徳寺第七十二世住持)が創建した「霊山一枝軒」は畠山義有によって再造営されて龍源院に改められています。現在見られる前庭「一枝坦」は「霊山一枝軒」の前庭がそのまま受け継がれているのか、畠山義有の再造営の際に造られたかのいずれになるかはわかっていないようです。
本堂の方丈です。大徳寺における南派の本庵であった龍源院の中心建築です。解体修理によって主要部が永正年間建立のままに保たれていることが確認され、細部手法などや六室に分ける空間構成も、よく禅宗方丈の典型的型式を示しています。
建物の中央奥室廻りに古材が多く使用されていますが、これらは前身の「霊山一枝軒」の部材であった可能性が指摘されています。畠山義有が「霊山一枝軒」を再造営して龍源院に改めた時の転用古材かもしれません。
建築史的には東福寺塔頭龍吟庵方丈に次ぐ古い遺構であり、大徳寺の塔頭方丈としては大仙院方丈とならんで最古の遺構になるものとして価値が高く、付属の折玄関部も含めて国の重要文化財に指定されています。
付属の折玄関の内部も方丈前縁から降りて見ることが出来ました。中世期の簡素な折玄関の様相がよくうかがえます。簡素とはいっても、細部をよく見れば、基礎の礎石は花崗岩を用いて唐礎盤、角柱ともに入念の出来を示します。軒内は四半の瓦敷となし、周囲の雨落は葛石を用いてかなりの贅が尽くされています。大徳寺の塔頭はどこでもこのような造りであるので、中世戦国期には京都でも相当の裕福さを誇っていた大徳寺の実態がうかがえます。
方丈内陣を前縁から拝みました。上図は「室中」と呼ばれる客殿空間の「中ノ間」にあたります。襖絵は一式等春(いっしきとうしゅん)の筆と伝わりますが、江戸期の「都林泉名勝図絵」では長谷川等伯の筆としています。どちらが正しいのかは諸資料でも明確な言及がありませんが、一式等春だとすれば重要な遺品と成り得ます。
一式等春は水墨画の大家雪舟等楊(せっしゅうとうよう)の弟子で、門人に長谷川宗清などが居ます。この長谷川宗清は長谷川等伯の養父なので、長谷川等伯とも接点があったかもしれません。つまりは一式等春の作画を長谷川等伯らが手伝った、という可能性も考えられますので、こちらの襖絵は見ていてなかなか興味深いものでした。
この「中ノ間」の奥の左二間分が上図のように仏壇となっていて襖が開かれていました。本堂指図ではこの仏壇を「真前(禅宗でいう祠堂の古称)」と呼んで本尊の仏像を安置し祀っています。
本尊の阿弥陀如来坐像はこれまた鎌倉彫刻史に名高い慶派の優品です。快慶の弟子のひとりとされる行心の作で、胎内膝裏に「建長二年七月日造之 行心作」の銘があります。快慶の作風を柔らかく京風に仕上げており、建長二年(1250)の銘記によって13世紀中葉の基準作例として国の重要文化財に指定されています。
本堂の正面に掛けられる扁額です。龍源院の寺号が古い書体であらわされます。開基東渓宗牧(とうけいそうぼく 大徳寺第七十二世住持)の語録自賛の永正十三年(1516)の文書に「堤龍寶無上印、稱松源不肖孫、幷呑二門甘露、吐渦謂之龍源」とあって、寺号の由来が明らかです。
龍は大徳寺の山号の龍寶からとり、源は東渓宗牧の最初の師の春浦宗凞(しゅんぼそうき 大徳寺第四十世住持)が建てた塔頭松源院の号からとっています。
本堂の方丈の北西に建つ開祖堂です。開基東渓宗牧の塔所(墓所)ですので一般公開はなされていません。U氏が「室町期の建築にしては新しく見えるなあ、復古かね?」と話していましたが、その通り、室町期の開基堂を再現した昭和の建築です。
庫裏のときもそうですが、U氏は建築の新旧の見分けが正しく出来るようです。ともに京都の芸大にて学んでいた時期、京都や奈良の古社寺を一緒に回っていた頃、必ず古建築関連の専門書を2冊携行しては建物の前で熱心にひらいて観察をしていましたから、古建築に関する識別眼は相当に鍛えられているはずです。ですが、建築史の用語や細部意匠の専門用語に関してはいまだに覚えられないと20年経ってもボヤいているのですから、妙なものです。
方丈の裏縁をぐるりと回りました。裏面の戸は全て中世の香りをただよわせる舞良戸(まいらど)です。武家邸宅の一般的な設えのひとつでもあるので、城館の御殿建築でも似たような舞良戸の列を見ることが出来ます。
方丈の裏庭「龍吟庭」は室町期の苔庭で相阿弥の作と伝わりますが、確証がありません。それよりもこちらの東側の「東滴壺」と呼ばれる壺庭(中庭)のほうが見応えがありました。
国内に現存する中世戦国期の壺庭としては最小の規模になるそうですが、それにしては妙な底知れぬ一種の「深遠な広がり」を感じさせます。U氏もこの庭が一番印象に残ったようで、あとあとまで話題に出していました。
壺庭に次いでU氏が興味深く眺めていたのが上図の「担雪井」と呼ばれる古い野井戸でした。中世戦国期から江戸期にかけてはどこの民家にもあっただろう、屋外の生活用水の井戸の形式をとどめています。いわゆる釣瓶井戸のタイプですが、現在ではなかなか古い事例は見られません。しかもこれはいまも現役であるそうで、仏事の加地水などを汲んでいると聞きます。大徳寺山内でもあまり見かけない野井戸ですので、ここの「担雪井」は必見です。
順路を引き返して庫裏より退出しました。表門付近から振り返ると、折玄関の唐門が樹木の間に少し見えただけで、本堂の方丈は全く見えなくなっていました。その距離感が、そのまま中世戦国期と現在とのそれのように感じられましたが、U氏も同じことを思ったと後で聞きました。 (続く)