二度目の長野原草津口駅の続きです。駅の玄関口からバスターミナルを見ました。既に草津温泉行きの連絡バスが慌ただしく出て行った後で、辺りには静けさが戻っていました。
今回も草津温泉以外へ向かう観光客は私だけのようだな、と思いました。野反湖も旧太子駅跡も、それぞれに魅力的な観光地だと思うのですが、一般観光客の殆どは草津温泉にしか興味が無いようで、ここ長野原草津口駅で一緒に降りた大勢の乗客も、気付けばあっという間に草津温泉行きの連絡バスに吸い込まれるようにして乗って行ってしまっていました。
なので、この駅の近辺に全く人影を見ないのは、前回も今回も同じでした。駅前の目印にもなっているであろう、上図の立派な時計台も、寂しげにポツンと立ち尽くしているのみでした。
あの時計台も、ゆるキャンの原作コミックのほうでは描写されていますから、アニメ4期の放送後には全国からの巡礼ファンが必ず撮影する筈です。
さて、バスターミナルの5番乗り場に行きました。前回はここからのバスに乗って野反湖へ行きました。
時刻表も前回と同じでした。乗るバスは、上図の10時57分発しかありません。既に野反湖までの道は冬季通行止めとなっていて、10月21日から4月30日までの期間は途中の花敷温泉までで折返しとなりますから、今回の11月21日のバスのどれに乗っても野反湖へは行けないわけでした。地元の群馬県民でもなかなか行けない穴場、というのがよく分かります。
ですが、今回行く旧太子駅跡へは、いつでも行けます。かつての吾妻線の支線だった太子線の終点駅であり、ここ長野原草津口駅の次の駅でしたから、バスで行っても片道15分ぐらいで行けます。
10時50分、バスがやってきました。運転手さんに挨拶して、旧太子駅跡バス停までの所要時間を確認しましたら「15分ぐらいですよ」と言われました。線路跡の大半が道路に転じているので、長野原草津口駅から廃線跡をたどってハイキングして旧太子駅跡まで行く観光客も時々居ますよ、との事でした。
それで、太子線の廃線跡は現在どうなっているのかを教えて貰いました。お話によれば、廃線跡は大部分が残っているが、途中のトンネルの一部が落盤などで塞がっていて通れず、国道292号線の西側の白砂川の西岸を通っていた部分は基本的に立ち入り禁止とかになっている、赤岩地区の南から国道292号線と交差してその東側に沿ってからは大体車道になっているので、トンネルも通れるし、そのまま旧太子駅跡の横まで行ける、ということでした。
「その廃線跡を、みんなで歩くとかのウォークイベントは行われたことがありますか?」
「うーん、そういうのは聞いたことは無いですねえ・・・、草軽電鉄の廃線跡のほうはよくイベントでツアーとかやってますけどねえ、こっちの太子線跡は距離が短いですし、普段は地元の方々の生活道路になってますしねえ・・・、太子駅の跡だって公園にして公開してからまだ何年も経ってませんしねえ」
「その太子駅跡というのは、いつから公開されてるのですか?」
「まだ最近のことですよ、ええと、2018年の春ぐらいからでしたかね・・・、それまでは埋まっていたのを観光資源にしようとかで、町の事業で掘り出してね、駅は廃線で無くなっていたんですが、昔の姿にしようと復元工事とかやってましてね、そういうのが2018年に一段落してね、それからいろんな貨車とか、あちこちから譲ってもらって集めてきてね、それで今のような、ああいう状態になりましたね」
「そうですか、2018年からですと、今年で6年目ですか・・・」
10時57分、時刻表通りに長野原草津口駅を出発しました。旧太子線の廃線跡と今も残されている支線の鉄橋を横に見ながら、国道292号線へと進みました。この日の乗客は、私の他には地元住民らしき方が3人でした。
その3人とも、上図に見える赤岩集落の横の2ヶ所のバス停で降りていきましたから、赤岩地区の住民であるようでした。
その次のバス停が「赤岩入口」で、その横から上図の赤岩集落への連絡路が通じていて道路わきには立派な案内看板が立っていました。
赤岩地区は、幕末や明治期からの養蚕農家が集中して特徴ある独特の養蚕民家建築を伝え、平成18年に群馬県では初の国重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に指定されています。地区内を南北に走る旧街道沿いに昔ながらの家並みが続き、その中央辺りには江戸期の蘭学者、高野長英が逃亡中に隠れ住んだと言われる部屋が残る、指定重要文化財の「赤岩湯本家住宅」があります。
私はこれまでに全国各地の主な国重要伝統的建造物群保存地区の殆どへ行っていますので、ここ赤岩地区へも出来れば立ち寄りたかったのですが、バスの時刻が最低限であるために一日一往復するのがやっとで、前回は野反湖、今回は旧太子駅跡へ行きましたから、赤岩地区への散策は次の機会に回すことになりました。
赤岩地区からさらに奥へ5分ほど走って11時11分に、上図の「旧太子駅」バス停で降りました。バス停と道をはさんで上図の案内看板が立ち、その奥に黒い貨車が見えました。
その黒い貨車に近寄りました。旧太子駅跡はバス停からは見えない谷間にあるため、バス停の辺りからは駅跡の位置が分かりにくいのです。それで、駅跡への道の入口に、目印として上図の黒い貨車を静態保存の形で置いているもののようです。
最初はこの黒い貨車のある場所も、かつての太子線の廃線跡にあたるのだろうかと考えましたが、後で旧太子駅跡の駅舎資料館の展示地図を見て、廃線跡とは無関係の場所であることを知りました。
黒い貨車の形式名を確かめました。御覧のように「ワラ1」とあり、日本国有鉄道(国鉄)が1962年(昭和37年)から製造した17トン積貨車(有蓋車)であるワラ1形貨車であることが分かります。
ワラ1形貨車は、1962年から1966年までに17367輌もの多数が製造され、当時の貨物輸送の主力となって活躍した貨車です。1984年の国鉄ダイヤ改正の貨物輸送体系転換によって汎用的な運用が停止されるまでは全国各地の路線で使用され、1987年の国鉄分割民営化までに全車が除籍、廃車となりました。
上図の現存車は、唯一の試作車にあたり、長らく四国旅客鉄道の多度津工場で保存されていたものが、ここ群馬県吾妻郡中之条町に寄贈されて、2023年11月から旧太子駅跡に移設されて今に至っています。
ワラ1形貨車は計17367輌が製造されましたが、ひとつのメーカーで請け負えるわけはなく、当時の分割発注のシステムに従って複数のメーカーに注文が発せられ、川崎車輛、新三菱重工業、舞鶴重工業、日本車輌製造、汽車製造、日立製作所、若松車輛の7社が製造を分担しました。
ここの唯一の現存車は、御覧の銘板にあるように「日本車輌 輸送機工業」の製造と分かります。現在の日本車輌の輸送機製造部の前身にあたります。かつて父も勤務していた客車および貨車の製作部門で、いまの豊川工場に置かれていたと聞きます。
銘板の「昭和37年」には父も日本車輌に居ましたから、ひょっとしたらこの黒い試作貨車の製造に関与していたかもしれません。
それで、銘板の脇の鉄板にそっと手を添えて、亡き父を偲びました。
ワラ1形貨車の横から道を下っていくと、右手に谷間が見えてきて、旧太子線の廃線跡とみられる車道が南の長野原草津口駅の方角へ伸びているのも望まれました。
手前の斜面上に何か妙なコンクリート製らしき構造物が6つほど等間隔で並んでいました。その右奥の斜面にも何らかの妙な構造物が見えました。下の車道へ行けば、それらの妙な構造物の正体が分かるかな、と考えましたが、私が降りている道からは、下の車道へ下りられる道がどこにも付いていなかったのでした。
続いて北に視線を転ずると、道が右に屈折する左側に二条の線路と数輌の無蓋の貨車が見えました。旧太子駅跡はあれか、バス停からは全然見えない位置にあるなあ、と改めて思いました。
道を降りていくと、上図左に見える広い駐車場に続いていますが、その一角には町内の緊急連絡用のヘリポートの正方形のスペースがあり、「六合ヘリポート」の標識が立っていました。上図左の白い車の手前の白いコンクリート地面がその「六合ヘリポート」です。 (続く)