気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

京都鉄道博物館5 模型と貨車とエンジン

2025年02月24日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 京都鉄道博物館の本館一階の続きです。上図の103系のカットモデルを見ました。車体の三分の一ほどが展示され、横のホーム状のステップ段から中に入れるようになっています。これも大阪環状線を走っていた車輛のようですが、さきにプロムナードで見た1号車とは別の個体であるようです。

 ですが、館内の展示車輌配置図には載っていません。このようなカットモデルは車輛ではなくて展示ディスプレイの一種として扱われているのでしょう。

 

 こちらは蒸気機関車の内部を見られるように作った模型です。各部名称の札があちこちに貼ってあるので、蒸気機関車の各パーツのそれぞれの名前が分かります。説明板を見忘れましたが、嫁さんに聞いたところではC58形だったようです。

 

 蒸気機関の罐の内部構造がよく分かります。以前に嵐山のトロッコ嵯峨駅の19世紀ホールでD51形のカットモデルを見た事があり、その記憶とあわせるとより理解が深まりました。

 

 こちらはDF50形ディーゼル機関車の模型です。これも内部構造が分かるように示されたカットモデルです。トップナンバー車で、実物は愛媛県の四国鉄道文化館に保存展示されています。

 

 模型では、DF50形の特徴あるエンジンの様子がよく分かります。この1号車は試作機にあたり、エンジンは当時の新三菱重工がスイスのズルツァー社と技術提携して製造した、直列8気筒直噴式の三菱神戸ズルツァー8LDA25Aと呼ばれるものでした。

 

  この模型は、嫁さんも特に念入りに見学していました。あちこちをスマホで撮りつつ、ケースに貼りついたまま、上から下から、左右からも見ていました。このDF50形も、山陰本線で活躍した機関車であるからです。当然ながらNゲージでもトミックスの製品を買っていました。

 DF50形は、日本国有鉄道のディーゼル機関車の一種で、非電化亜幹線の無煙化を目的として開発、1957年に先行試作車が製造され、以後1963年まで増備されて計138輌が製造されました。
 主に亀山機関区、米子機関区、高松運転所、高知機関区、宮崎機関区に集中配置され、山陰本線、紀勢本線、予讃線、土讃線、日豊本線などで使用されました。山陰本線および福知山線全線においては、1978年にDD51形へ置き換えられるまで運用されました。最後の車輌が廃車となったのが1985年のことでした。

 なので、山陰線の昭和期の写真集などを開くと、福知山駅や亀山駅などにおいてDF50形の貨物列車や駅構内移動などの様子が色々と見られます。馬堀駅や並河駅を通過してゆくDF50形の貨物列車の姿もあったりで、嫁さんにとっては「昭和の山陰線のディーゼル機関車」のイメージがピッタリくるそうです。

 

 こちらは国鉄489系です。ベースとなった151系や485系とともに、昭和の特急電車の代表格として親しまれた車輛です。私自身も、子供の頃の記憶にある在来線特急のイメージが、この151系や485系の「こだま形」でありました。

 489系は485系をベースにして、信越本線の横川・軽井沢間の急勾配区間の通過対策が施された車輌で、1971年に製造されました。特急「白山」として運用、碓氷峠越え区間ではEF63との協調運転を行なっていました。

 その当時の映像を、ゆるキャン聖地巡礼で訪れた碓氷峠鉄道文化むらにて見ましたが、この「こだま形」が電気機関車に牽引されて走っている姿は珍しくてインパクトがありました。

 

 こちらは国鉄ワム3500形貨車です。戦前の1917年から1926年にかけて、鉄道院および鉄道省が日本車輌製造、汽車製造などに発注してで11873両を製造した15トン積み二軸車有蓋車のワム32000形を、1928年の車両称号規程改正によって改称したものです。
 そのうちの約2500両は、1937年から1940年にかけての日中戦争において、陸軍の要請によって標準軌に改造のうえ中国大陸に送られています。戦後は貨物列車の主力貨車の一種として1970年まで活躍、最後の車輌が書類上は1983年まで在籍したといいます。
 そしてここの展示車は、現存する唯一の車輌であり、その貴重さゆえに京都鉄道博物館に収容されたわけです。

 

 国鉄ワム3500形貨車の隣には、上図の国鉄ヨ5000形貨車があります。日本国有鉄道が1959年から1968年頃までに製造、または改造して運用した事業用貨車(車掌車)の一種です。長らく国鉄の主力車掌車として、北海道を除く全国で使用されましたが、1986年に貨物列車の車掌乗務が原則廃止されたため、JRに継承された一部の車両を除く全車が廃車されました。

 展示車の8号車は、日本初のコンテナ専用特急貨物列車「たから」号の専用となっていた時期の姿に復元されています。車体カラーも、当時連結されたコンテナ車チキ5000形とコンテナに合わせて、車体が淡緑3号、台枠部が赤3号とされた状態になっています。

 

 こちらは国鉄のディーゼル車輛に搭載されていた、DMH17形ディーゼルエンジンの模型です。各所がカットされて内部が見えるカットモデルとなっていて、定期的にデモ作動を行ない、実際のエンジンの動きを示しています。

 嫁さんが「これ、マイバッハ?」と訊くので「いや違う、これは国産や。幾つかのメーカーが造ってる。新潟鐵工とか池貝製作所とか新三菱重工とかダイハツ工業・・・」と説明しました。

「なんでひとつの形式のエンジンを、幾つかのメーカーに造らせたんですかね?ひとつのメーカーで独占したら駄目やったんですか?」
「駄目とかじゃなくてな、昔は国鉄やったから国策として鉄道車輌を造らせたんで、産業育成、産業促進の観点から複数のメーカーに発注して競わせて造らせるシステムやったの。鉄道だけじゃなくて、戦前の戦闘機、戦車、軍艦も同じで、ひとつの型を複数のメーカーが造ってる。例えば零戦、三菱と中島で造ってるし、駆逐艦やったら国営の海軍工廠のほかに民間の造船所、例えば藤永田とか日本鋼管鶴見、三菱重工とかね・・・」
「ふーん」

 

 DMH17形エンジンは、日本国有鉄道の気動車およびディーゼル機関車に搭載されていた直列8気筒、副室式ディーゼルエンジンの一種です。DMはディーゼルエンジン、Hは8気筒、17は排気量が17リッター、を意味します。改良が重ねられて、最終的には12種のバリエーションが造られています。

 

 説明板です。1953年から、とありますが、正しくは1951年からの製造になります。5年間にわたって、とありますが、実際には1960年まで量産が続けられましたから、9年間にわたって、というのが正しいと思います。そして1960年代末まで、これを搭載した国鉄の気動車が大量に製造され、日本全国で使用されました。

 また、国鉄だけでなく私鉄が導入した気動車にも広く採用されており、その最後の事例は1977年製造の小湊鉄道キハ200形気動車の最終増備車2輌であったそうです。

 

「緑に赤に黄色・・・、実際にこんなふうにあちこち色分けしてるのですかね?」
「いや、これは展示用の見本なんで、各部分を分かり易いように塗り分けてあるだけじゃないかな」
「あー、なるほどー」

 

 色々な展示があって、嫁さんはあちこち指差しては次々に興味を示して見学していきましたが、私自身は「よくこんなに色々集めたなあ」という驚きのほうが大きかったです。

 

 特に、上図の新幹線100系が展示されているのにはびっくりしました。0系はあちこちで見かけるのですが、100系の保存展示車は初めて見たからです。なにしろ、いま現存している100系車輌はたった3輌だけで、ここ以外は名古屋のリニア鉄道館と片町線徳庵駅の近畿車輌敷地に保存されています。

 100系は、日本国有鉄道が開発した東海道・山陽新幹線の第2世代新幹線電車です。デビューは1985年で、1992年までに16両編成66本の計1056両が製造されました。
 私も大学生の頃に初めて乗りましたが、0系よりもフロントマスクが長いのに最初は違和感を感じたことを覚えています。サメみたいな感じなので、ダグラスとかミグとかの戦闘機みたいだな、と思いましたが、実際に「シャークノーズ」と呼ばれるデザインであったことを後で知りました。

 上図の展示車輌は100系の122形で、普通席を備える制御電動車です。JR西日本所属のV編成16号車として125形とペアを組んで使用されたものです。廃車後は博多総合車両所で保管され、2016年からここに収容されています。  (続く)

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 京都鉄道博物館4 EF66形とDD... | トップ | ゆるキャン△の聖地を行く45 ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

洛中洛外聖地巡礼記」カテゴリの最新記事