藤森神社に伝わる国重要文化財の建築二棟は、かつては本殿の左右に並んでいたそうですが、現在は本殿の背後に並んでいます。西端の天満宮を見てから、その隣へ進むと、上図の大将軍社がありました。これが国重要文化財の建築二棟のうちの一棟でした。
この大将軍社の社殿は、室町期の永享十年(1438)に足利義教が造営したもので、室町幕府将軍家の寄進による社寺建築の数少ない現存例とされています。
室町期を通じて足利将軍家が関与した建築は多かったのですが、ほとんどは応仁の乱にて焼失して失われており、ここ藤森神社の大将軍社は貴重な建築遺構であります。
大将軍社の祭神は、方位をつかさどる大将軍という神様です。平安遷都の際に桓武天皇が奈良の春日大社から大将軍を勧請(かんじょう)し、平安京を守る方除の神として四方に祀ったとされるのが、京都における大将軍社の初めとされています。
現在の四方の大将軍社は、北の今宮神社境内の紫野大将軍社、西の大将軍八神社、東の三條大将軍神社、そして南のここ藤森神社摂社大将軍社です。
社殿は一間社流造の形式で、屋根はこけら葺です。正面の扉は上下に分けられた格子扉で、室町期の書院造に準じた優雅なしつらえでまとめられています。左右の脇障子にも斜め格子がはめこまれて入念の出来を示します。足利将軍家が寄進造営しただけあって、当時の一流の雅やかな建築様式が織り込まれています。
この種の規模の社殿建築にしては、屋根もしっかりと丁寧に造ってあります。頭貫の上の虹梁も繊細な曲線を描いてシンプルな形ながらも優美な雰囲気を醸し出しています。京都の各地に伝わる室町期の神社建築のなかでも、これほどの出来の例はあまり見たことがないように思います。
大将軍社の東隣には、上図の八幡宮があります。これも室町期の永享十年(1438)に足利義教が造営したもので、室町幕府将軍家の寄進による社寺建築の数少ない現存例とされています。国重要文化財のもう一棟がこちらです。
傍らの文化財指定標識です。足利義教建立、と具体的に足利将軍家の氏名を明記してあるのは珍しいです。こういう標識の例を他では見たことがなかったので、将軍家の氏名入りというのが新鮮に感じられました。
社殿は、さきに見た大将軍社と同じ形式です。同じ永享十年(1438)の造営ですから、セットで建てたことが容易に伺えます。
この永享十年(1438年)に室町幕府第六代将軍足利義教は、後花園天皇の勅を受けて稲荷山の山頂にあった稲荷神の社を麓の藤尾に遷座させました。これが現在の伏見稲荷大社にあたります。藤尾の地には、古くから祀られた藤尾神社が鎮座していましたが、これを藤森に遷座させて現在も藤森神社本殿の東殿として祀っています。
この伏見稲荷大社の遷座にともない、関連する神社の移転や整備も一括して進められ、藤尾神社とともに在った真幡寸神社が鳥羽の地に移されました。これが現在の城南宮にあたります。
これらの事業の一環として藤森神社の拡張整備が行われ、現在みられる大将軍社と八幡宮がセットで建立され、京都の四方の護りと源氏の氏神である八幡神の加護が期待されたわけです。
なので、こちらの八幡宮は、おそらく石清水八幡宮からの勧請によって成立したのでしょう。周知のように石清水八幡宮は源氏の統領、八幡太郎義家の元服の地であり、源氏に連なる室町幕府の将軍足利氏および管領細川氏にとっては祖先の神域、聖地中の聖地でありました。
しかし、綺麗なスタイルの社殿ですね。平安期の社殿の豪壮さ、鎌倉期の社殿の武骨さ、江戸期の社殿の豪華さ、に比べると、室町期の社殿は優美というか純和風の落ち着いた雰囲気に包まれています。
そのためか、室町期の社殿建築は全般的に地味である、という評価が多いようです。しかし、細部や意匠を細かく見てゆくと、建築としての出来栄え、建築技術の洗練度にかけてはたぶん室町期がトップなのではないか、と思わせられるほどに、磨き抜かれた技のみが醸し出す一種の美しさが、さりげなく漂ってくるのを感じることがしばしばです。
ともあれ、藤森神社に伝わる貴重な三棟の建築遺構を見学しました。色々と学ぶことも多かったので、知的好奇心も充分に満たされました。帰りも旧奈良街道をたどって家路についたのでした。 (了)