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伏見城の面影30 妙心寺長慶院山門

2024年11月05日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 泉涌寺法音院を辞して再び市バスに乗り、U氏のリクエストによって京都国立博物館に立ち寄って常設展示を見学しました。その後に円町へ移動して昼食をとり、それから市バスで上図の妙心寺北門前まで移動しました。

 

 妙心寺の北大門から境内地に進みました。U氏が「いやー、三年ぶりかね」と言いながら門の建物を見上げ、スマホで撮影していました。

「去年(2023)の2月以来だな、妙心寺は」
「せやな」
「その前は21年の秋だった、11月だったかな」
「よう覚えとるねえ」
「覚えてるよ、桂春院だったろ、あれの庭園が綺麗だったんで印象に残ってるのよ」
「その桂春院の隣やで、今回行くんは」
「ほう」

 

 北大門から東に曲がって上図の石畳道を歩きました。妙心寺境内地の塔頭エリアの路地はたいていこのような石畳道なので、独特の歴史的風情がただよっています。時代劇のロケも時々行われているそうです。

 

 石畳道を二度曲がって、境内地の北東隅にあたる上図の塔頭の門前に着きました。この南隣に、以前に二人で参拝した桂春院があります。

 

「ここや、妙心寺塔頭のひとつ、長慶院や」
「ほう、長慶院っていうのか、いい寺名だな、長く慶びあれ、という意味かな」
「かもしれんが、この寺を創建した願主の名前が長慶院なんで、そのまま寺号になってる」
「ふむ?その願主ってのは?」
「女性や。俗名は杉原くま、または木下くま、という」
「えっ、くま?・・・確か、北政所ねねの姉妹じゃなかったか?」
「せや。杉原のくま、ねね、ややの三姉妹の長女や」
「うわあ・・・、こりゃまた重要な人物じゃないか、北政所のお姉さんだったのか・・・」

 

 山門に懸かる「長慶院」の表札です。くまの法号である、長慶院殿寮嶽寿保大姉、に因みます。

「願主が長慶院くまさんで、開山は妙心寺第71世住持だった東漸宗震(とうぜんそうしん)、この人は出身が美濃国可児郡やな・・・」
「すると、近くの尾張国春日井郡にいた杉原くま、ねねとは昔から知り合いだったのかな」
「そこまでは分からんが、東漸宗震には高台院ねねも帰依していたから、木下一族で信仰しとったのは間違いない」
「ふむ」

 

 長慶院の創建は慶長五年(1600)で、その際に伏見城の東門を譲り受けて上図の山門としたと伝わります。それを話したら、U氏が目を輝かせました。

「慶長五年だと?」
「うん」
「それで願主が豊臣一族の木下くまならば、譲り受けた伏見城の東門というのは、豊臣期になるじゃんか」
「うん、そういうことになる」

 既に何度か触れているように、伏見城は時期的には豊臣期の城郭と徳川期の城郭とに分かれます。豊臣秀吉が建設した城がほぼ完成したのが慶長二年五月、秀吉が伏見城で病没したのが慶長三年八月のことでした。
 その二年後の慶長五年六月、に東西手切れとなり、小早川秀秋、島津義弘らの西軍が鳥居元忠が城代として守る伏見城に攻め寄せ、八月に城は落城しました。この落城に関して石田三成が城内の建物をことごとく焼き払った旨を書状に記しているので、秀吉時代の伏見城の主要建築はすべて焼亡したとされています。

 そして、翌慶長六年三月に関ヶ原戦で勝利をおさめた徳川家康が伏見城に入り、慶長七年六月に藤堂高虎を普請奉行に起用して城の再建にとりかかっています。その十二月に城の再建が一段落し、徳川家康が帰城しています。

 なので、慶長五年に譲り受けた伏見城の東門とは、慶長七年六月に再建が進められた徳川期の建物では有り得ません。それ以前の豊臣期の建物である、としか言いようがありません。伏見城合戦で焼け残った建物を譲り受けた、という可能性も考えられますが、どのみち豊臣期の建築遺構である点は揺るがないでしょう。

 

 ですが、いまの門の大部分は、上図の主柱や門扉を除けば、後からの追加であるようです。U氏は「前回見た平等院の北門と同じパターンだろうな、もとは冠木門だったのを、屋根や側壁を追加して寺院の門の型式に改造したという・・・」と話していましたが、私も同意見でした。

 

 御覧のように、この門には各所に改造の痕跡がみられます。冠木門の主柱の内側を大きく削り取って別材をあてて埋めて門扉の蝶番の金具を取り付けています。もとの蝶番部分が壊れたか、打ち付けた柱面が割れたかして、このような修理に至ったもののようです。
 また、主柱の根元部分も別材に替えられています。根元は雨水などで朽損しやすいので、上図のようにカットして新しい材に替えて修理するケースが一般的です。また、その根元部分の礎石に接する底部にも刳り込みが残りますが、これはおそらくここに移築して山門とした際に敷居を追加してはめ込んだ跡でしょう。

 

 門扉も、枠は新たに交換されているようですが、扉板と釘隠はもとの部材をそのまま踏襲しているようです。伏見城東門であった頃は、扉付きの冠木門であったものと推測されますが、その部分が黒っぽく見えます。

 

 内側に入って門扉の脇の潜り戸を見ました。御覧のように主柱の隅を不自然に彫り切って戸を嵌めていますが、城郭の門の潜り戸ではこういう造作はやりませんし、何よりも潜り戸自体が細すぎます。閂も支え木もありませんので、ここに山門として移築した後に追加した戸口であることが分かります。

 

 御覧のように主柱の裏面に木の芯部が露出しており、上端では腐って空洞が出来ているのが見えます。横の冠木から伝ってくる雨水が、どうしても上端に流れ落ちますので、水分に弱い木芯部は腐って朽ちていくわけです。さきに見た根元部分の修理跡も、こうした腐朽箇所を除去して別材に交換しているわけです。

 

 そして潜り戸の横には、何らかの金具か継ぎ具を差し込んだ方形の孔が6つ残ります。飾り金具を取り付けた跡かもしれませんが、位置的には変なので、違う目的の何かを差し込んだ跡だろうと推測します。

 

 屋根を見上げました。御覧のように古い冠木門の冠木に載せる形で虹梁(こうりょう)を交えて支柱をつけ、虹梁の中央前寄りに束(つか)を立てて棟木(むねぎ)を据え、屋根を載せています。これらの材がみんな白っぽく、真新しい感じがしますので、屋根は全てここに移築してからの追加改造であることが分かります。

 

 外から見ても、屋根部分が新しいことがうかがえます。冠木門の主柱と冠木と門扉だけが古めかしく見えます。その主柱をU氏が指さして、「あれさ、鏡柱とも言うよな?」と訊いてきました。「うん、鏡柱やな」と応じました。冠木門の主柱の正式名称が鏡柱(かがみはしら)です。

 

 かくして、豊臣期伏見城の門の建物が妙心寺塔頭の長慶院に伝わっているのを確認しました。伏見城の東門を移したという寺伝はおそらく本物でしょう。

 ですが、いま見られる門の大きさは小型に属します。冠木門でありましたから、少なくとも本丸や二ノ丸といった主要部、もしくは重点防御区画の門ではなかった可能性が高いです。伏見城の外郭部または周辺塁線上の通用口クラスの門であったとみるのが良さそうに思います。
 なので、伏見城合戦でも焼け残った門であったかもしれません。問題は長慶院こと木下くまが、いかなる契機によって慶長五年(1600)にこの門を譲り受けて妙心寺に寺を建てたのか、という点ですが、それに関しては長慶院のほうに話をうかがうか、寺史や関連史料をあたるしか方法がありませんが、今回は門の見学のみで終わったため、機会があれば何らかの伝手を求めて探ってみようかと思います。

 

 以上、妙心寺長慶院山門でした。この門が、U氏と私の京都における伏見城移築建築遺構巡りのラストとなりました。

 伏見城からの移築伝承建築は、京都府だけでなく他県にも幾つか知られており、広島県福山城の伏見櫓が、現時点では確認された旧伏見城建築の唯一の遺構として知られています。  (了)

 


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