客殿(本堂)に入る前に、上図の中門および番所、築地の構えを見に行きました。養源院の正門にあたりますが、普段は閉じられていて一般の拝観順路からも外れています。本堂とともに国の重要文化財になっている建物群ですので、U氏が「折角だからちょっと見ていこう」と見に行きました。私も後に続きました。
寺院の正門には有り得ない番所が付く点も、徳川家の全面支援による建設の一端を示しています。現存の伽藍は元和七年(1621)の再建ですが、その発願は二代将軍徳川秀忠正室の祟源院(お江)なので、江戸幕府の公的造営ではなかったものの、幕府の直営事業として位置づけられたようです。
そのためか、上図の中門や番所は当時の最高格式の建築として建てられており、寺院というより城郭の門や番所に近い雰囲気に仕上がっています。移築の痕跡は一切見えませんので、ここで元和七年に新造された建物であるようです。
現存の建築群の建設が江戸幕府の直営事業であったことは、事業の責任者の顔ぶれを見れば分かります。養源院の正式記録である天明六年(1786)の「由緒書」には、事業の担当者として「御奉行 佐久間河内守殿、御見分 土井大炊守殿 板倉伊賀守殿」とあり、当時のトップクラスの普請事業担当者ばかりであることが知られます。
まず、普請奉行の佐久間河内守実勝(さねかつ)は、元は豊臣秀吉の小姓でしたが、後に徳川家康から家光までの三代に仕え、慶長十四年(1609)に名古屋城築城の普請奉行を務めました。さらに寛永九年(1632)には幕府の作事奉行となっています。現代で言えば建設関係のトップにあたりますが、茶人としても知られ、宗可流の開祖にあたります。
御見分役の土井大炊守利勝(としかつ)は、徳川家康の母方の従弟にあたり、徳川秀忠政権においては老中職にあって絶大な権勢を誇りました。徳川秀忠正室の祟徳院の再建発願を容れて事業を実質的に推進せしめた人物であろうとされていますが、当時はずっと江戸詰めでしたから、養源院再興の現場には直接的には関与していなかったようです。
したがって、もう一人の御見分役の板倉伊賀守勝重(かつしげ)が実質的に担当していたものとみられます。徳川家康から家光までの三代に仕え、慶長六年(1601)より京都所司代を勤めていました。元和五年(1619)に京都所司代職を子の重宗(しげむね)に譲って引退していましたから、養源院再興の時点では隠居の身分でしたが、それでも幕命により御見分役を務めたようです。元和九年(1623)に従四位下に叙せられて侍従に任ぜられたのは、その功績によったのかもしれません。
したがって、現存の客殿(本堂)以下の建立には、土井大炊守利勝が実質上の実行委員長として采配を振るい、普請奉行を佐久間河内守が、御見分役を板倉伊賀守勝重が務めた、という構図で理解して良いでしょう。当時の幕閣の重要なメンバーが並んでいますから、養源院の再建事業というのは、そのへんの有力寺社の再建工事とは格も中身も違っていたのだろう、と言えそうです。
なので、客殿が伏見城からの移築であるとされるのも、何らかの根拠があってのことだろうと思います。既に江戸期の寛政十一年(1799)の「都林泉名勝図絵」(江戸後期の京都の寺社の名庭園を網羅したガイドブック)の養源院の項に「当院の客殿書院は伏見城の館舎を此処に引移すなり」とあり、一般的にも知られていたようです。
そうなると、伏見城のどの時期の建物が移築されたのか、という問題が出てきますが、豊臣期までの伏見城は伏見城合戦で西軍に攻められて全ての建物が焼かれたことが史料にも記されるため、その建物を移築することは有り得ないと考えられます。
したがって、その後に徳川氏が再建した伏見城の建物が候補となります。徳川家康が慶長六年(1601)から再建し、元和五年(1620)に廃城が決定して翌年から破却が始まり、元和九年(1623)の時点で本丸書院以外の全ての建物が解体撤去されています。元和七年の養源院再建は、伏見城の破却が進められている時期にあたりますので、解体撤去された建物を転用するというのは可能だったわけです。
なので、養源院の客殿が伏見城からの移築であるとするならば、それは元和五年(1620)から破却が始まった徳川期伏見城の建物であった可能性が強くなります。
上図は、中門を見た後で客殿の車寄の南側に回って、立ち入り禁止区域の外から見た護摩堂です。通常は非公開なので、近くまで寄ることも出来ません。
護摩堂は、崇源院の五女(末娘)にあたる徳川和子(とくがわまさこ)こと東福門院(とうふくもんいん・後水尾天皇の皇后)が宮中の祈願所として併設したもので、国の重要文化財に指定されています。
U氏が「いよいよ入りますかね」と言い、私も頷いて上図の車寄(くるまよせ)つまり玄関口から内部に進みました。
車寄の内部です。本堂客殿との取り合い部分の構造がシンプルなので、最初から客殿とワンセットで造られていることが伺えます。つまり、客殿と同じく車寄も伏見城からの移築である可能性が考えられます。
外見は、屋根を入母屋、妻入りとして正面中央に軒唐破風を付けますが、この形式は二条城二の丸御殿の車寄、名古屋城本丸御殿の車寄、などと共通しています。いずれも江戸幕府黎明期の主要御殿建築の車寄として評価出来るでしょう。
私たちが入った時、車寄から客殿南側へ観光ツアーの団体が案内人に連れられてひしめいていましたので、U氏が反対側の北側への出入口を指差して「あっちから見よう」と言い、国重要文化財の俵屋宗達の杉戸絵を横目に見つつ入っていきました。
上図はその北側から入ったところの、客殿西側の広縁と下間の並びの杉戸引違です。左端は落縁で、雨戸と障子が落縁の外側に付けられているのが分かります。この形式は古いもので、江戸期の書院建築では類例が稀です。私の知る限りでは、知恩院大方丈ぐらいです。
なお、奥の杉戸が開放されている部分が下間の奥室で、寺では「牡丹の間」と呼び、秀吉の学問所であったと伝えています。
その「牡丹の間」を見ました。中央に地蔵菩薩像が祀られ、奥の襖には牡丹図が描かれています。狩野山楽の筆とされます。
観光ツアーの団体が北側に移動してきたので、入れ替わるようにして南側へ回りました。上図は南の広縁と三つの前室です。左の白い襖の部分が下間前室、その右奥の開かれた両折桟唐戸の部分が室中前室「松ノ間」、奥の杉戸が外されて開放されている部分が上間前室にあたります。
上間は明治期に聖天堂に改められていて撮影禁止でしたので、その内部構造を撮れませんでしたが、一見して城郭御殿の上段の間に相当する格式の高い空間であることが分かりました。その奥室にのみ、床と棚と付書院の正規座敷飾り三点セットがみられ、上段部分の天井は最高格式の折上小組格天井となっています。
こうした空間は、本来は高位の人物が御成りになる部屋であり、想定される人物は、徳川将軍家かその関係者、ということになります。徳川期伏見城の客殿であったのならば、当然ながら将軍家、養源院客殿においては願主の祟源院および娘の東福門院、ということになるでしょう。
U氏が得意の身体尺による計測法で客殿の柱間寸法を測っていたので、どのくらいかと訊ねると「両側の室の寸法は16尺20寸ぐらい、中央の室中は22尺70寸・・いや75寸に近いかな」と答えました。それらを6.5という数値で割ると、両側の室の算出値は2.5、室中のそれは3.5という数値に近くなります。やっぱりな、と納得しました。
実は、6.5というのは6.5尺のことで、室町戦国期までの柱割制の基本単位のひとつです。6.5尺を基本にして寺社の柱間寸法を決めるやり方で、建物の規模に応じて2倍、2.5倍、3倍、3.5倍と乗算して柱間を決める方式です。江戸期になると書院建築の寸法は柱割制から畳を基本単位とする畳制に移行しましたから、養源院客殿の平面規模は室町戦国期までの柱割制を踏襲していることが分かります。戦国期末期に建てられた伏見城の建物であれば、間違いなく柱割制で設計されているはずなので、この点でも移築伝承は本物である可能性が示唆されます。
退出後に、しばらく玄関前の枝垂れ桜を眺めました。養源院本堂の客殿は、いまでは数少ない江戸初期の書院建築の遺構であり、色々と興味深い様相が見られて楽しめました。どう見ても考えても、客殿は伏見城からの移築であるという伝承は本物だろう、という意見にU氏も私も落ち着きました。面白かったな、と言い合いました。
ですが、京都府や京都市の文化財調査報告書類ではこの種の移築伝承を、単なる言い伝えとするにとどめるか、または無視して顧みない傾向があるようです。
そのために、実は本物の旧伏見城建築である可能性が高いのに、全然気付かれていなかったり、違う評価を下されて誤解されたまま、というケースがあるのだろうと思います。伝承軽視という、戦後の歴史学の悪弊は、令和になっても残り続けるのでしょうか。 (続く)