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豊家の余香13 豊国神社唐門にて

2024年03月15日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 豊国神社唐門の続きです。今回の見学コースのラストでしたので、わりと時間に余裕があってじっくりと建物を眺めることが出来ました。

 特にU氏は茨城県水戸市からはるばる来ていますから、こうした見学の機会はとにかく重要かつ貴重で有る筈です。なので、これまでもそうでしたが、U氏との京都巡礼散策においては、U氏の都合に合わせてスケジュールも余裕ある内容にしていました。だいたいは夕方に新幹線で帰るので、夕食時には水戸に着くように行程を決めています。

 

 なので、U氏のほうが、私よりもじっくりと、真剣に丹念に双眼鏡も使って建築の細部を観察しているのが常でした。

 

 細部を順に見ながら、双眼鏡を覗いた姿勢のままで、「やっぱりこの唐門、伏見城の門なんじゃないのかなあ、伏見城じゃないのならば、どこにあったんだろうなあ、京都新城しか思いつかんなあ」と呟いていました。私もだいたい同じ推測を持っているので、「だな」と応じるにとどまりました。

 

 この唐門の来歴は、前述した通り、いったん二条城に移築され、その後に金地院へと渡っています。つまりは徳川家の管理下に置かれていたことになります。

 徳川家康は、大坂夏の陣にて秀頼を自刃せしめて豊臣宗家を滅ぼした後、秀吉の墓所の豊国廟を破却し、秀吉の神号も廃止しました。そして豊国廟と方広寺の敷地を没収して、德川家が祇園綾小路から移転させた妙法院の管理下に置きました。そのため、豊国廟に残されていた秀吉の遺宝類は妙法院によって収奪されていますが、方広寺自体も妙法院の脇寺となったために、遺宝類の散逸だけは免れています。

 

 そしてこの唐門も、破却されずに二条城に移されたわけですが、要するに徳川家康も、秀吉ゆかりのこの唐門建築の価値と素晴らしさを認めていたからこそ、壊さずに管理下に置くことで、せめてもの罪滅ぼしとしたのでしょう。

 そもそも徳川政権の施政方針の基本的な部分は、かなり豊臣政権のそれを継承していますので、当時の人々がそれを知っている以上、何でもかんでも豊臣家関連の要素を壊して破却して廃止して消してしまうわけにもいかなかったわけです。
 おそらくは、前政権の良い所、良い遺産は僅かながらも残して後世に伝え、戦国乱世を完全に終焉せしめた豊臣家の功績だけはきちんと正しく評価して、ささやかながらも顕彰だけは怠らないでおこう、という徳川家康の内意があったのではないか、と個人的には推測しています。
 同時に、政治的には豊臣家を抹殺したが、文化的には抹殺せずにこうして立派な建築遺産を幾つも伝え残した点に、德川家康という人物の真価をみておくべきだろう、と思います。

 

 なので、唐門の正面の蟇股の下に豊臣家の五七桐紋が燦然と煌めいているままであることの、本質的な意味がよく分かります。織田信長が切り拓き、豊臣秀吉が整えて均したこの国の近世という新たな時代を、継承して着実なものに仕上げるのが徳川家康の幕府の基本原則であるわけですから、織田家も豊臣家も完全に否定するわけにはいかないわけです。

 

 だから、この唐門もその歴史的価値の重さ深さのままに、まっとうに評価されて残るべくして残され、大切に伝えられてきたのだ、と解釈しています。いま国宝に指定されていることの本質的な意味がそこにある、と理解しています。

 なにしろ、豊臣秀吉が居てくれたから、あの大航海時代の欧米列強のアジア植民地化の怒涛の荒波から、日本だけは逃れ得て独立国家としての誇りを保ち続けられたのです。
 あの時代の、スペイン、ポルトガルによる貿易やキリスト教布教の本意が、実は日本の征服および植民地化にあると見抜いたのが秀吉でしたから、彼らによる日本人奴隷の売買も禁止し、布教も禁止の方向に進んで貿易にも制限をかける成り行きになったわけです。朝鮮に出兵したのも、実はスペイン、ポルトガルによる侵略に対抗しての軍事作戦であっただろうという説が最近に出ていますが、それにも違和感はありません。

 そういう事柄を、同時期の政治家として徳川家康はよく理解していた筈です。だから日本人奴隷の売買禁止とキリスト教弾圧、南蛮貿易の制限という三つの基本的な対外政策はそのまま江戸幕府に受け継がれたのです。
 同時に、豊臣政権の文化的な遺産は残して伝えるべく、管理下に置いて保護したわけです。豊国神社唐門がいまに現存していることの背景に、そういった流れがあったことを、我々は忘れてはいけないな、と思います。

 以上の私見を簡単に述べたところ、U氏は大きく頷いたのみで何も言いませんでした。が、満足げな笑みをチラリと見せてきましたので、私もそれに合わせて微笑するのみでした。

 

 唐門を辞して、境内地の入口右側の上図の立派な社号標を見ました。これは明治期に豊国神社が再興された時に建てられたものですが、豊臣期の創建時にもそれなりの社号標が建てられていたものと思われます。

 

 最後に、上図の石積みを眺めつつ、バス停へ向かいました。かつての方広寺伽藍の外郭の石垣であったものがそのまま残されている部分で、大半は豊国神社の正面と南隣の京都国立博物館の敷地の外周になっています。

 

 ふとU氏が立ち止まり、上図の目立つ巨石が三つ並ぶあたりを眺めていました。それから小声で「ヨシ」と言い、大満足の表情をこちらに向けてきました。見るべきものは見た、考えて理解するべき事はみんな受け止めた、というような穏やかな顔でした。

「あとは御飯をどこかで食べようぜ。それから新幹線で帰るわ」
「そうか」
「今日は俺の案で高台寺を先に入れて貰ったんで、次は星野の本来のコース案でいこう」
「そうしよう」
「とりあえず、11月の第一土日で考えといてくれるか」
「承知」

 ということで、この日の豊臣家関連の社寺3ヶ所の巡礼を完了し、11月5、6日の後半コースに繋ぐ予定を決めて、京都駅ビルでの食事の後、握手して解散したのでした。  (了)  

 


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