気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

(車輌目次表紙)聖グロリアーナ女学院 クルセイダーMk.Ⅲ(2輌目)

2024年07月16日 | ガールズ&パンツァー

  使用キット  タミヤ・イタレリNo.25 (商品コード37025)

  制作期間   2023年5月22日~5月26日、5月30日

  製作記事   その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 完成です!!

  総評・備考
 クルセーダーは、1940年にイギリスが開発した20トンクラスの巡航戦車で、のべ5,000輌以上が製造され、北アフリカ戦線で活躍した。ガルパンにおいては、砲塔を拡大して主砲を6ポンド砲に換装した最終形態のMk.Ⅲが登場し、聖グロリアーナ女学院チームの所属車輌として劇場版から最終章に至るまで数々の活躍をなしている。
 適応キットは古くはイタレリ(下のキット一覧の4)、最近ではボーダーモデルの製品(下のキット一覧の6)が知られ、イタレリの品をタミヤが「タミヤイタレリシリーズ」として販売する品(下のキット一覧の5)もある。ボーダーモデルの品はプラッツの公式キットにもなっており、3種類の公式キットが出ている(下のキット一覧の1から3)。したがって内容的にはイタレリ製品とボーダーモデル製品の2系統に分かれるが、製作の難易度は前者が低く後者が高い。初心者クラスにはイタレリ系統のタミヤ製品がおすすめである。ボーダーモデル系統は公式キットも含めて上級者向けとみておいたほうが良いだろう。
 今回の作例は、タミヤイタレリのキットを用いて、劇中車仕様における目立つポイントのみを合わせて再現製作した。メインは、砲塔天板前部のベンチレーターの位置の調整、砲塔右側面のライトの取り付け位置の調整、後部の左右のボックスのハッチの向きの統一、の三つであった。

  公式および適応キット一覧(2024年7月現在) 黄帯が今回の使用キット  


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新潟ビゲン高校 ランズベルクL-60軽戦車 作ります!! その4

2024年07月15日 | ガルパン模型制作記

 ステップ11では、車体上部の各部品を取り付けて、上下の車体を貼り合わせます。作中車は今回のキットの車体とほぼ同じ姿に描かれますので、ここでもガイドの組み立て指示に沿って進めます。追加工作として、車体前面に薄い装甲板を張ります。

 

 ステップ11で取り付けるパーツ類です。エッチングパーツのライトカバーは、実際のL-60には付いていませんが、作中車には付いているので、ガイドの指示にしたがって組み付けます。

 

 組み上がりました。

 

 続いて、上下の車体を貼り合わせます。

 

 ホビーボスの製品はパーツの合いが良く、今回も綺麗に合わさりました。

 

 追加工作にとりかかります。車体前面右側の方形のグリル跡を塞ぎます。

 

 御覧のように実車でも車体前面右側の方形のグリルは無く、薄い鉄板が張られています。完全な方形ではなく、前照灯の下にも続く不整形の鉄板になっています。

 なお、車体前端に上向きの牽引ホールドが見えますが、作中車にもあるかは不明で、第二次大戦中のL-60の写真を見ると今回のキットと同じ形式の牽引フックになっている例が多いです。

 

 実車の画像を参考にしてプラ板を上図のようにカットして貼りました。

 

 これで車体部分の組み立てと追加工作の全てが完了しました。

 

 次は砲塔の製作になります。組み立てガイドの図はトルディⅠの砲塔の図になっていますのでここでは不要とし、作中車の砲塔に該当する、上図のL-60の初期型砲塔の画像をネットで探し出しまして、参考にしました。

 

 このように、砲塔のパーツは形状からして異なりますので、パーツごとに改造が必要です。トルディⅠの砲塔はL-60の砲塔の前後を拡張したタイプですので、その拡張部分をカットして元の形状に戻すことになります。

 

 砲塔底部のA32の後方の拡張部分をカットし、元の円形に直しました。

 

 元の円形に直したA32を砲塔パーツにかぶせて仮組みしました。A32の円形のラインに沿って砲塔パーツの拡張部分をカットし、元の丸い砲塔に直します。  (続く)

 

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伏見城の面影14 南禅寺金地院東照宮から大方丈へ

2024年07月14日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 金地院東照宮の拝殿の縁側に置かれていた案内文の立札です。U氏はいつものように三度くりかえして読んでいました。

 

 そして拝殿の軒下を見上げつつ、「疎垂木(まばらだるき)だな」と言いました。神社建築の垂木形式としては簡素のほうに属しますが、ここの建物では簡素化というよりも、総黒漆塗りの黒い外観に独特のアクセントをつけるために意図的に採用されているように思われます。

 

 貫の上の黒い板壁には円環形の浮彫レリーフが懸けてありますが、もとは金泥の下地に彩色を施していましたから、黒漆の上では夜空の月のように輝いて見えたことでしょう。

 

 モチーフは鳳凰のようです。かなり剥落していますが、もとは色とりどりに塗られて鮮やかな姿であったと思われます。徳川政権の初期にて庇護した社寺の建築装飾はだいたいこのようなタイプです。日光東照宮しかり、妙義神社しかり、三峰神社しかり、です。

 

 ですが、徳川政権の関与した社寺建築においても、この拝殿のような漆黒の建物は稀です。背後の石の間や本殿が極彩色であるのとは対照的です。何らかの意図があったものと推測されますが、基本的には神仏習合期の神社の仏教的な建物形式になっていることに着目すべきでしょう。

 

 背後の石の間や本殿は、御覧のように朱柱の一般的な社殿建築の姿を示しています。拝殿と同じく寛永五年(1628)の建立で、国の重要文化財に指定されています。

 

 石の間を見ました。このように、拝殿と本殿の間の石の間を建物として構成し、拝殿と本殿とに繋いで造る形式を「石の間造り」といいます。石の間自体は本来は土間であって、平安期には既にみられたようですが、建物がつく形式となったのは安土桃山期からのようです。慶長四年(1599)に京都阿弥陀ヶ峰に建てられた豊国神社が「石の間造り」の古い例であったとされています。

 京都で似たような「石の間造り」の現存例を挙げるとすれば、北野天満宮社殿が思い浮かびます。

 

 続いて本殿を見ました。拝観順路からはちょっと離れているので、双眼鏡で見たりしましたが、典型的な江戸初期の極彩色の社殿建築です。桃山期の流行をそのまま踏襲しているように見えますが、意匠的には形式化の兆しがほの見えます。木組みなどに施された彩色の基本デザインは、平安期以来の伝統的な繧繝(うんげん)の系譜上にあります。

 

 本殿の横から土塀の小さな出入口を抜けて下へ石段を降りると、正面に開山堂の側面部が迫ってきますが、その右手に視線を向けると上図の大方丈が見えてきました。

 

 U氏が立ち止まり、私を振り返って問いかけてきました。

 「右京大夫、あの大方丈が、もと伏見城の書院だったと寺では伝えてるわけだが、どう思う?」
 「どうも、違うんじゃないかな・・・」
 「やっぱり、そう思うか」
 「ああ、規模的には大きすぎるんじゃないかって気がする。桃山期までの書院造はだいたい複数の建物を連ねるからね、二条城二の丸御殿みたいに。伏見城の書院も幾つか並んでたタイプだから、個々の建物は小さかったと思うんで・・・。でもあの大方丈は、規模が大きいし屋根も高い、あれで空間的には一つの書院として完結してる。江戸期の禅寺の一般的な方丈のタイプやな・・・」
 「俺もあれは一個の書院方丈で、江戸期の新造の建物かなと思う。この前見てきた正伝寺の方丈な、もとはここにあったんだろ?それを正伝寺へ移築したのは、あの大方丈を建てるためだったんじゃないかと思う」
 「そう、そう」

 意見が一致したところで、再び歩き出して、大方丈へと歩み寄りました。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く39 その12  静岡へ

2024年07月13日 | ゆるキャン△

 白糸の滝および音止の滝、お鬢水を見てバス停に戻りました。上図の、来た時に降りたバス停ですが、これは行きの路線のバス停だったと気付いて、反対側の帰りの路線のバス停へ向かいました。

 

 こちらが帰りの路線のバス停でした。次の便の時刻9時20分まで7分ありましたので、周辺の景色を見て撮りました。

 

 やっぱり富士山が綺麗に見えているので、何枚でも撮ってしまいます・・・。

 

 どこから富士山を撮影したかの記録の意味で、上図のように白糸の滝の案内看板を入れて撮ったりしました。

 

 9時20分のバスに乗り、30分後の9時50分に富士宮駅前に戻りました。上図右が今回泊まった富士急富士宮ホテルです。

 

 駅前のコンビニで買い物をして、嫁さんに定期の連絡をした後、10時5分に富士宮駅に入りました。

 

 駅のホームから見える富士山。富士宮駅はこういう景色が楽しめますから全然退屈しません。

 

 富士宮駅の駅名標です。

 

 駅の側線には保線工事用の車輌が停まっていました。以前に大井川鐡道でも似たような車輛をみかけましたが、この種の車輌は地域ごとに形式がバラバラであるような気がします。同型車輛をどこでも見かける、という感じではないように思いますが、どうなのでしょうか。

 模型のNゲージでは、こういう感じの保線工事用の車輌は、トミックスやカトーなどの大手メーカーからは出ておらず、津川洋行やグリーンマックスのキットしか出ていないようです。

 

 ですが、上図のような長い荷台車は津川洋行やグリーンマックスのキットにあったかなあ・・・。

 

 保線工事車両を見物しているうちに、次に乗る列車がやってきました。10時23分発の特急ふじかわ4号、373系の3輌編成でした。この車輛も去年の冬にNゲージのトミックスの製品を購入しましたが、ヘッドマークのインレタシールをまだ入れていないので、いまだに手元で走らせていません。

 

 いつも快適な特急ふじかわの車内。乗って数分もすれば、ウトウトしてしまいます。車やバイクでの聖地巡礼もいいですが、鉄道やバスなどの公共交通機関を利用したほうが、移動中に何か食べたり、ゆっくり寝られるので楽ですね。

 

 窓から見えた富士山。

 

 11時2分、終点の静岡駅に着きました。

 

 静岡駅の駅名標です。

 

 そういえば、特急ふじかわのヘッドマークは何色だったっけ、と気付いて再度前面部を見に行きました。青色でした。

 トミックスの373系のセットには、ふじかわの青色のヘッドマークのほか、373系が運用された特急の「伊那路」や「東海」のヘッドマークも幾つか入っていますので、購入後に好きなのを切り取って貼ることになりますが、まだ貼っていなかったので、実車を見て確かめたわけです。

 

 よく見ますと、青い海のように見えたのは富士川の水流のデザインですね・・・。水色は空で、白い複数の横線は雲ですかね・・・?  (続く)

 

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(車輌目次表紙)聖グロリアーナ女学院 マチルダⅡ(劇場版・最終章)

2024年07月12日 | ガールズ&パンツァー

  使用キット  タミヤ ミリタリーミニチュアNo.300 (商品コード35300)

  制作期間   2020年12月5日~12月8日

  製作記事   関連記事

  総評・備考
 第二次大戦中のイギリス戦車の1/35スケールキットは、他国の戦車に比べて少ないとされるが、マチルダⅡも例外ではない。ガルパンにも登場して各試合で活躍するが、残念ながら公式キットは未だに出ていない。キットそのものがタミヤとICMからあわせて4種類しか出ておらず、入手が容易なのはタミヤの新キットのみとされる。
 ガルパンの劇中車はテレビ版仕様と劇場版以降の仕様とに分かれるため、どちらを作るかで適応キットも分かれる。今回は最終章仕様にて製作したが、劇場版仕様と共通であるので製作の段取りも同じであった。適応キットはタミヤの新キット(下のキット一覧の2)である。テレビ版仕様の適応キットはタミヤの旧キット(下のキット一覧の1)とされる。いずれも劇中車に仕上げるには多少の改造や追加工作を必要とするが、全体的には劇場版仕様のほうがキットとの相違点も少なくて作業量も少ない。劇中車が付ける牽引ホールドのパーツはいずれのキットにも入っていないため、他キットからの転用に頼らざるを得ない。初心者向けではないが、あえてチャレンジすることで得られる経験値は大きいだろう。 

  公式および適応キット一覧(2024年7月現在) 黄帯が今回の使用キット  


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新潟ビゲン高校 ランズベルクL-60軽戦車 作ります!! その3

2024年07月11日 | ガルパン模型制作記

 ステップ7では背面部と履帯を組み付けます。私の製作では、履帯は塗装後に取り付けますので、ここではステップ7の工程は飛ばします。
 ステップ8では、上部車体に内側から取り付けるパーツを5個つけます。そのうち、前面につけるC2は作中車でも実車でも無く、そのあたりは鉄板で覆われていますので、一応、裏返しで付けて前面装甲上にて出っ張らないようにしました。

 

 ステップ7の背面部を取り付けた状態です。

 

 ステップ8に進みました。

 

 前面につけるC2だけを裏返して取り付けました。またA2は作中車では描写がなされているシーンが見当たらず、実車にも見えないので、取り付けないでおきました。

 

 ステップ9では上部車体と左右のフェンダーを組み立てます。フェンダーのステーはエッチングパーツになっており、ガイド図ではL字形に折り曲げて付ける指示がありますが、実車ではフェンダー天面部にのみ付いていて、車体側面部には付いていません。それで、エッチングパーツは全てプラ板に置き換えます。前端のPE20だけが2本並んだ形状ですが、これも1本に直してプラ板で貼り付けます。

 さらにL-60の初期形状に戻して合わせるため、操縦手ボックスの張り出しの左側を縮めます。今回のキットのトルディは、L-60の操縦手ボックスを拡大した改修型であるからです。この操縦手ボックスの張り出しの形状は、作中車では把握出来ていなかったためか、曖昧に描かれてトルディの拡大された状態に近いように見えます。

 

 ステップ9で組み合わせる上部車体と左右のフェンダーA1、A12です。2本の白い棒板は、ステーのエッチングパーツを置き換えるプラ板です。あらかじめエッチングパーツの幅に合わせてカットしてあります。

 

 

 組み上がりました。ステーのエッチングパーツを全てプラ板に置き換えました。実車もこの形状です。

 

 続いて、L-60の初期形状に戻して合わせるため、上図の操縦手ボックスの張り出しの左側を縮めます。今回のキットのトルディは、L-60の操縦手ボックスを拡大した改修型であるので、それを改修前の元の形状に戻すわけです。

 

 カットしてプラ板で貼り直して、L-60の操縦手ボックスの形状に仕上げました。

 

 ステップ10では、車体上部各所の部品を取り付けます。操縦手ハッチのA17はさきの改造に合わせて小さく直します。

 

 ステップ10で取り付ける車体上部各所のパーツ類です。

 

 操縦手ハッチのA17以外を組み付けました。

 

 操縦手ハッチのA17です。

 

 操縦手ハッチのA17は、さきに改造した操縦手ボックスの形状に合わせてカットして作り直します。

 

 ハッチも縮めて合わせました。これで操縦手ボックスの改造が完了しました。  (続く)

 

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伏見城の面影13 南禅寺金地院の東照宮

2024年07月10日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 南禅寺金地院の拝観順路は、明智門から左に折れて上図の弁天池の東から南に回って、南の高台に鎮座する東照宮へと続いていました。

 

 弁天池の東側で、道が僅かに登り坂になっていました。U氏が「東照宮が金地院のなかで一番高い位置にあるってことは、江戸期までの神仏習合形態のなかでいうと、東照宮が主で金地院はそれに属する神宮寺の位置にあったんだろうな」と言いました。

 

 金地院が東照宮の神宮寺であったかどうかは、徳川家の公式史料にも以心崇伝(いしん すうでん)の「本光國師日記」にも記載が見られないので分かりませんが、上図の金地院方丈を江戸期の古絵図にて「御祈祷殿」と記していますので、方丈が東照宮の遥拝施設としての役目も併せ持っていて、金地院と東照宮がワンセットの宗教的空間に置かれていた歴史をうかがわせます。

 

 道の突き当りから左には、上図の東照宮の山門にあたる楼門が見えました。先に前を通って見た建物です。

 

 反対側の右に進み、上図の石畳の参道を北へたどりました。

 

 程なく上図の東照宮門をくぐりました。東照宮門の破風屋根は傷んで要修理状態のようで、応急的に防水シートで覆われていました。

 

 東照宮門をくぐり、上図の拝殿の前に進みました。U氏が「こりゃすげぇな、総黒漆塗りの仏教式の拝殿じゃないか、こういうの初めて見たな」と感動の声を上げました。
 御覧のように、神社の一般的な拝殿の建物の形式ではなく、神仏習合期の仏教式の拝殿建築としての姿を示しています。京都でもなかなか見られない、貴重な神仏習合期の建築遺構です。

 

 その正面の破風の真下の壁には、神仏習合期の堂宇には一般的に掛けられていた懸仏(かけぼとけ)の円盤が見えました。U氏が「懸仏が普通にかかってるじゃんか、おー、初めてみたぞ。神仏習合の状態を保ってるなんてすげえなあ」と言いました。

 懸仏とは、神仏習合期において、神社の鏡に現れた本地仏像の姿を表したものです。江戸期までは各地の社寺の社殿や仏堂などに普通に掛けられていたもので、明治期の神仏分離にて分離撤去または破却廃棄の対象となって多くの遺品が失われてしまいました。いま現存する遺品の多くは、神仏分離政策が停止された後に場所を移して祀ったか、倉庫などに仕舞われて再び使用されなかったものが殆どです。

 

 ここ金地院東照宮の懸仏は、寛永五年(1628)の創建以来の状態をそのまま保っているようです。明治の神仏分離期にも撤去されなかったもののようですが、それはここの東照宮が江戸幕府徳川氏の創設した三東照宮の一にあたる重要な神社であったことが関係していたのかもしれません。

 周知のように、徳川家康の遺言によって創建が指示された東照宮は三ヶ所あります。江戸幕府の公式史料である「徳川実紀」に収められた家康の元和二年(1616)4月2日の遺言を原文で読みますと、「(遺体は)久能山に納め奉り、御法会は江戸増上寺にて行はれ、霊牌は三州(三河国)大樹寺に置れ、御周忌終て後下野国日光山へ小堂を営造して祭奠すべし。京都には南禅寺中金地院へ小堂をいとなみ、所司代はじめ武家の輩進拝せしむべし」とあります。

 すなわち、遺体を久能山東照宮におさめよ、周忌後に日光東照宮へ位牌を移せ、京都では南禅寺の金地院に小堂を営んで東照宮とせよ、という意味です。そして金地院の東照宮には江戸期を通じて京都所司代の番所が置かれ、創建当初は日光東照宮と比されていましたから、徳川政権の重要な祭祀拠点であったことがうかがえます。

 

 その家康の遺言に従って創建された「南禅寺中金地院」の「小堂」がいまも現存しているわけですから、この拝殿や奥の本殿は江戸幕府草創期の宗教施策の様相を如実に物語っているわけです。国の重要文化財に指定されていますが、国宝に昇格してもおかしくないと思います。

 

 拝殿の内部を見ました。天井には狩野探幽の筆による「鳴龍」が描かれています。以心崇伝の「本光國師日記」寛永七年(1630)三月十二日条に「狩野采女へ状遣ス。拝殿之龍杉しやうし絵之義申遣ス」とあって、拝殿の龍と杉障子の絵を狩野探幽に依頼したことが分かります。そのうちの「龍」が上図の「鳴龍」ですが、杉障子の絵のほうは奥にあるのか、暗がりでよく見えませんでした。

 また、上図のように拝殿内部の欄間には土佐光起の画、青蓮院宮尊純法親王の書になる「三十六歌仙」額が掲げられています。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く39 その11  白糸の滝からお鬢水へ

2024年07月09日 | ゆるキャン△

 美しい虹がかかった白糸の滝の朝の光景を、ずっと眺めていて、ふと時計をみると8時55分でした。残り25分になっていました。

 

 もう少し眺めていたかったのですが、帰りのバスに乗れなくなってしまいますので、意を決して退出することにしました。

 

 退出の前に、記念の自撮り。

 

 20年ぶりの白糸の滝、最高でした。富士山の太古の火山活動によって形成された雄大な大自然の地形の妙、と言えましょう。

 

 後ろ髪を引かれる思いで、帰りの園路も後ろ向きに歩いて、少しでも長く滝を見続けて心に刻み込みました。

 

 さて、どっちへ行くのか・・・と上図の道標を見上げました。たぶん、駐車場へ向かえば良いかな、460メートルか、と思案しました。いま歩いている帰路の園路は20年前には無かったと思うので、最近の整備事業によって新たにつけられたものだろうと考えました。

 昔は滝のすぐ近くまで行って、また引き返して駐車場に戻ったと記憶していますが、その駐車場がいまでは「富士山・白糸ノ滝テラス」に転じているのでした。
 なので、現在の駐車場は、20年前の駐車場とは別の位置にあることになりますが、それはバス停の横の広い駐車場のことかな、と思いました。

 

 道を登って駐車場へ行く途中に展望場がありました。白糸の滝の西側の断崖上に突き出るようにして設けられています。

 

 展望場からは、白糸の滝の馬蹄形の滝壺が見下ろせました。

 

 さきに滝の近くまで行った時には分かりませんでしたが、上から見る水の色は透き通った綺麗なエメラルドグリーンでした。

 

 富士山も御覧のように真正面に見えました。

 

 何度見ても素晴らしい。見飽きません。こういう景色が見られる家に住んでみたいものです。
 それで、いま嫁さんとすすめている家探しの件で、山梨県や静岡県を候補地に入れたら「ゆるキャンだけで家の場所決めるの、止めて貰えます?」と軽く笑われました。模型はガンガン作るけれど、アニメやアニメの聖地巡礼には全く関心がない人です。

 

 展望場から駐車場へ行く途中に、上図の「お鬢水」の標識がありました。初めて見る名前なので、立ち寄ってみました。

 

 現地の案内説明板です。なるほど、白糸の滝の上にある水流の池ですか・・・。

 

 「お鬢水」は昔から神泉として祀られており、上図の昭和41年設置の古い説明板には3柱の祭神が記されてありました。

 

 これが「お鬢水」です。小さな水溜まりといった感じの池でした。右手の低い方に浅く水が流れていました。

 

 「お鬢水」の奥には、水流の痕跡というか、水が少なくなって枯れた堆積溶岩の切れ目が見えました。降雨期や増水期にはここにも水流が戻って、白糸の滝への支流が見られるそうです。

 つまり、普段はこのように水流が枯れて「お鬢水」が池として静まるわけか、と納得しました。それで滝にかかわる水神への祭祀の拠点として昔から崇められてきたわけか、と理解しました。

 

 「お鬢水」の礼拝所に回ると、正面の池の向こうに岩窟が穿たれて、3柱の祭神の石祠がまつられていました。水面は静かに止まって鏡のように見え、上の景色が逆さまに映っていました。

 増水期には岩窟のすぐ下まで水が溢れるようで、岩窟の真下の岩肌には水の流れた痕跡が見えました。そこまで水位が上がれば、「お鬢水」に近づくことも出来なくなります。その時期には道を閉鎖して立ち入り禁止にするのだろうな、と思いました。  (続く)

 

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(車輌目次表紙)聖グロリアーナ女学院 クルセイダーMk.Ⅲ

2024年07月08日 | ガールズ&パンツァー

  使用キット  ボーダーモデル (商品コードBT012)

  制作期間   2023年5月10日~5月19日、5月30日

  製作記事   その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 その8 その9 その10 完成です!!

  総評・備考
 クルセーダーは、1940年にイギリスが開発した20トンクラスの巡航戦車で、のべ5,000輌以上が製造され、北アフリカ戦線で活躍した。ガルパンにおいては、砲塔を拡大して主砲を6ポンド砲に換装した最終形態のMk.Ⅲが登場し、聖グロリアーナ女学院チームの所属車輌として劇場版から最終章に至るまで数々の活躍をなしている。
 適応キットは古くはイタレリ(下のキット一覧の4)、最近ではボーダーモデルの製品(下のキット一覧の6)が知られ、イタレリの品をタミヤが「タミヤイタレリシリーズ」として販売する品(下のキット一覧の5)もある。ボーダーモデルの品はプラッツの公式キットにもなっており、3種類の公式キットが出ている(下のキット一覧の1から3)。したがって内容的にはイタレリ製品とボーダーモデル製品の2系統に分かれるが、製作の難易度は前者が低く後者が高い。初心者クラスにはイタレリ系統のタミヤ製品がおすすめである。ボーダーモデル系統は公式キットも含めて上級者向けとみておいたほうが良いだろう。
 今回の作例は、なるべく劇中車仕様に合わせて再現することを目指して、劇中車に最も仕様が近いボーダーモデルの品を使用して製作した。ただし履帯は連結式で組み立てが非常に難しいタイプであるので、タミヤイタレリのベルト式パーツに換えて作業量の軽減を図った。

  公式および適応キット一覧(2024年7月現在) 黄帯が今回の使用キット  


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新潟ビゲン高校 ランズベルクL-60軽戦車 作ります!! その2

2024年07月07日 | ガルパン模型制作記

 ステップ3では、引き続き足回りなどを組み立てます。今回の製作では作中車にあわせて改造するのは砲塔部分だけですので、足回りはそのままストレート組み、車体上部の各所に若干の追加工作を行ないます。ここでは組み立てガイドの指示通りに進めます。

 

 ステップ3の工程は3段階に分かれています。上図は1段階で取り付けるパーツ類です。

 

 組み付けました。

 

 続いて2段階で取り付けるパーツ類です。上部転輪が片側2個含まれます。アイルランド陸軍に現存する実車を見ますと上部転輪は鋼製のようでゴム部が見えません。
 作中車の描写では、上部転輪が鋼製かどうかは分かりにくいですが、実車同様と思われます。それで塗装は車体とセットで行えばよいので、ここで組み付けます。

 

 組み上がりました。

 

 3段階で取り付けるパーツ類です。以前にStrv m40L軽戦車を製作した際にも苦労したサスペンションアームB12が含まれます。ホビーボス製品の常で、細かいパーツの取り付け位置がよく分からなかったりしますが、このB12もガイド図をみる限りでは水平に付けるのか、少し斜めに下ろすのかが分かりにくいです。しかも細いので、取り付け時に僅かにズレると、車輪の取り付け部分が綺麗に一直線に揃いません。

 以前にStrv m40L軽戦車を製作した際は、少し斜めに下ろす形で取り付け、車輪の取り付け部分が綺麗に一直線に揃うように定規をあてて調整しましたので、今回も同じ段取りで進めました。が、10個のB12が全て同じ状態ではなく、なかには僅かに反ったり、曲がったりしているパーツもあったので、今回もそれらを修正する作業に追われました。

 

 なんとか組み上がりました。車輪の軸部を綺麗に揃えないと、車輪の並びも揃いませんし、連結式履帯の組み付けもうまくいかなくなりますので、この工程は重要でした。

 なぜここまで丁寧に作業したかというと、今回のキットの連結式履帯は華奢で壊れやすいからです。前にStrv m40L軽戦車を製作した時も、組み立て後に履帯が何度かボロボロと崩れたり外れたりして、その都度修理をしたからです。

 

 ステップ4では車輪類を組み付けます。転輪は塗装後に取り付けます。
 ステップ5では履帯を組みます。個人的にはいつまで経っても慣れない難しい作業で、とにかく苦手ですが、今回のはガルパン車輌キットのなかでも華奢で壊れやすい部類に属するので、真剣に取り組みます。
 ステップ6では、背面部の排気管を組み立てます。

 

 ステップ4の車輪類の組み付けが終わった状態です。起動輪と誘導輪は組み付けましたが、転輪は塗装後に取り付けますので、ここでは仮組みでした。

 

 ステップ5、最も難しい履帯の組み立てに進みました。丁寧に根気よく、般若心経を唱えて無心無我の境地に精神を落ち着かせつつ、少しずつ組み、壊れたりしないかチェックしながら進めました。向かいのテーブルでガンプラを作っていた嫁さんは、笑いを堪えるのに必死だったそうです。

 

 約1時間の苦行苦闘の末、なんとか悟りを開き・・・いや、履帯を上図のように組み上げました。塗装後に車輪に組み付けるので、3分割で仕上げました。
 これでだいぶ楽になったぞ、と一瞬思いましたが、実際にはまだ砲塔の改造を控えていましたから、気分的に楽になったのは一時のみでした。

 

 ステップ6で組み立てる、背面部の排気管のパーツ類です。

 

 組み上がりました。  (続く)

 

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伏見城の面影12 南禅寺金地院の明智門

2024年07月06日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 南禅寺金地院の山門をくぐり、右脇の拝観受付で拝観料を払った後、U氏が「さあ、まずはあれだな」と上図の庫裏に向かって左手に建つ門の建物を指差しました・

 

 U氏が指さした門の建物です。境内地の中門としての位置にあります。
「あれだ、あれがもと大徳寺の、現在の唐門の位置にあったという明智光秀の寄進門だな・・・」
「うん」

 

 傍らの説明板にも、天正十年(1582)に明智光秀が大徳寺に寄進建立し、明治元年(1868)に南禅寺金地院の現在地に移築した旨が書かれてありました。

 去る5月に大徳寺の特別公開に行った折、この明智門が移築されて後に移されてきた国宝の唐門をU氏と共に見ましたが、その際にガイドの方が「もとはここに明智光秀が寄進した唐門があって明智門と呼ばれていました」と説明していました。そのときの記事はこちら

 

 「これがもとは大徳寺方丈の唐門だったわけか。なんかえらく質素にみえるな」
 「ああ、いまの豪華絢爛な国宝の唐門とは全然違うね。むしろこっちのほうが、大徳寺方丈の佇まいには相応しいね」  
 「そりゃそうだろう、光秀ほどの文化教養人ならばこそ、大徳寺方丈との調和を重視してこういう設えにまとめたわけだ」
 「そういうことやね」

 

 「ただ、規模的にはこっちがちょっと小さいのと違うかな」
 「やっぱりそう思うかね。僕もそれを思ったんよ」
 「この柱とかも、華奢という感じで細いな」
 「まあ、あっちの現在の唐門はもとは聚楽第の門やったと伝わるし、本質的には城郭向けの門やったから部材も太くて堅牢なんやろうな」
 「うむ」

 

 「こっちのは、いかにも寺院中枢部の唐門という雰囲気だな」
 「せやな」
 「彩色の痕跡とか、無いみたいだな。素木づくりの門だったのかな」
 「だろうね、胡粉の痕もまったく見えへんし、大徳寺方丈の正門にあたる唐門だったから、装飾意匠は最低限におさえて目立たなくしてるしね」

 

 「門扉も丁寧にしっかり造られてるね」
 「上部が連子窓になってるの、当初からの状態のまんまなんだろうかね・・・」
 「ん?・・・ああ、なるほど。大徳寺方丈の唐門やった時は連子窓やなかった可能性があるな。基本的に方丈の玄関門は板戸で内部が見えないように造るからね・・・」
 「だろう?ここへ移築してからさ、ここは中に庭園とかあるだろ、そういうのが門を閉じててもある程度見えるように連子窓に改造したのと違うかね?」
 「その可能性はあるな・・・。よし、調べてみる。この門の修理報告書とか出ていれば、詳細は分かる筈」

 

 「屋根裏の木組みだけに装飾の彫り物が施されてるぞ。本当に目立たない、最低限の装飾だ」
 「こういうのが戦国期当時の粋ってもんやったかもしれん。もしくは光秀の美意識やったかもしれん」
 「うむ。派手好みの秀吉とは対照的やな。桃山建築の豪華絢爛さは秀吉個人の好みからきてるんだろうな」
 「信長の時期にも贅沢な建物はあっただろうけど、細部まで色とりどり、ピカピカってのは安土城でも無かったらしいからね。信長のオシャレの感覚は品格があるって感じ。秀吉のオシャレは農民が贅沢な羽織着て単純に喜んでる感じ」
 「まさしく」

 

 明智門をくぐって内側から見ました。太陽の位置の関係で、正面から見ると逆光になったので、内側から見ると上図のように綺麗に見えました。前後とも同じ形の唐破風屋根なので、棟瓦も前後に載せられています。

 

 唐門の内側に広がる庭園の園池です。寛永九年(1632)に崇伝が徳川家光を迎えるために小堀遠州に作庭させたもので「鶴亀の庭」と呼ばれます。国の特別名勝に指定されています。隣には弁天池があります。

 

 明智門は、その「鶴亀の庭」および弁天池を一巡する散策路の起点に位置しており、左手に進むのが拝観順路となっているので、先に弁天池の周りをまわって東照宮に行き、そこから方丈へと回って「鶴亀の庭」を見る、という流れになります。

 

 U氏が唐破風の上の棟瓦を見、スマホで撮っていましたので、私も同じように撮りました。撮影後もU氏がしばらく見上げていたので、横から問いかけました。

 「水戸の・・・、もしかして、明智氏の桔梗紋があるかどうかを確かめたのか」
 「実は、そうなんだ。でもあの通り、桔梗紋は無いなあ・・・」
 「もとは大徳寺に寄進した門だから、普通は大徳寺の寺紋になるのと違うか。いまは南禅寺金地院に在るから、その寺紋に換えられるやろうし・・・」
 「そう、そうなんだな。でも今は寺紋すら入ってない。普遍的な三つ巴紋だ」
 「でも、寄進建立の当初の棟瓦かどうかは分からんぞ。移築してるんなら、小修理というか改造も受けてるだろうし」
 「そういうことだな・・・」

 U氏はちょっと残念そうに、上げていた視線を下ろしました。おそらく、明智光秀建立の確かなしるしを、断片でもいいから、捉えたかったのに違いありません。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く39 その10  白糸の滝

2024年07月05日 | ゆるキャン△

 白糸の滝テラスエリアから階段を下ると、本来の古くからの滝見学路に合流して左へ進みます。滝の音が依然として響いていましたが、樹木が茂っていて谷間が見えませんでした。100メートルほど進むと樹木が切れて右手の谷間への視界がパッと開け、上図のように白糸の滝の姿が見えました。

 

 その地点から少し進むと分岐があり、左手にも上図の標識がありました。遠くの富士山の白い山頂を見つつ、音止の滝というのがあるのか、と思いました。この音止の滝に関しては、前回来た時の記憶が全くありませんでしたので、たぶん見ていないのだろう、と思いました。

 

 音止の滝展望所に登ると、白糸の滝よりも落差の長い立派な瀑布が谷間の陰に白く浮き上がって見えました。両側の崖面からも数状の細い滝が落ちているところは、白糸の滝と同じでした。位置的には100メートルぐらいしか離れていませんから、音止の滝も白糸の滝も同じ地形環境に派生した滝であることがよく分かります。

 

 音止の滝展望所からは、富士山も見えました。

 

 それで富士山と見比べつつ、しばらく音止の滝の滝壺の地形を眺めました。一見すると火口跡のようにも見えますが、古富士泥流堆積物の上に白糸溶岩流が積もって、それらが水流や滝で削られていった結果の滝壺地形であるそうです。この大きさの滝壺になるまでに何万年かかったんだろう、と思いました。

 

 引き返して、白糸の滝への見学路に戻り、上図の景色を眺めつつ、坂を降りて谷間へと進みました。

 

 この辺りまでくると、前回に来た時のおぼろげな記憶の景色とピタリと重なってきました。ああ、ここだな、と思い出しました。前に来たのは平成17年の夏でしたから、ほぼ20年ぶりの、変わらぬ白糸の滝の景色でした。

 

 現地の案内説明板です。前回来た時には無かったと思います。前回の訪問の翌年に滝見橋が崩落、平成23年の東北地方太平洋沖地震などで滝壺が被害を受け、その後は富士山の世界遺産登録に向けての諸整備事業が進められて、滝壺で営業していた土産物店を移転させ、落石防止柵などの人工構造物を撤去して風致景観の整備を行ったほか、歩経路、展望場、休憩場等の整備が行われたと聞きます。

 なので、今回来て、滝周辺の景色が完全に一変していたのも納得出来ました。

 

 ですが、白糸の滝の本体そのものは昔のままであるようです。度々の地震による落石や崩落なども大半は復旧されたそうなので、平成17年夏の見物時の記憶とあまり変わらない景色が眼前に広がっていました。

 

 この、古富士泥流堆積物の上に、白糸溶岩流が積もっているのが崖面を横切る一本の筋から分かります。その筋の上下の隙間から富士山の地下水が流れ出ています。その様子が白い絹糸を垂らしたようであることから「白糸の滝」と呼ばれるわけです。

 

 気付くと、主瀑の方角に虹がかかっていました。朝早くに来たので谷間の滝壺全体が日陰にありましたが、徐々に陽光が差し込んできたので、滝の水飛沫や霞のプリズム効果が発生したのでしょう。

 

 虹は、しばらくの間あざやかに出ていましたので、滝と虹とをしばらく眺めて過ごしました。マイナスイオンも溢れていて、なにか気分も良くなってきたのでした。

 

 滝に面した見学路の脇には、上図の古い石碑が建っていました。刻字の書体からみて江戸期の遺品とみられます。

 

 石碑の近くにあった案内説明板です。江戸期の富士講の開祖であった長谷川角行(はせがわ かくぎょう)の流れを受け継いで富士講を中興した食行身禄(じきぎょう みろく)の供養碑であるそうです。

 富士講とは、江戸期の富士山信仰の民間信仰団体のことです。広義的には、富士山とその神への信仰を行うための講社全般を指しますが、狭義的には、江戸期の関東で流行した、長谷川角行の系譜を汲む宗教体系および宗教運動全般を指します。仏教考古学や仏教民俗学などの分野における「富士講」の語句も、後者にあたります。  

 その狭義的な「富士講」の聖地のひとつが、ここ白糸の滝であるわけです。  (続く)

 

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(車輌目次表紙)ヴァイキング水産高校 M24チャーフィー軽戦車

2024年07月04日 | ガールズ&パンツァー

  使用キット  AFVクラブ (商品コードAF35054)

  制作期間   2022年12月9日~12月19日

  製作記事   その1 その2 その3 その4 その5 その6 完成です!!

  総評・備考
 M24チャーフィー軽戦車は、第二次大戦中にM3/M5軽戦車シリーズの更新用としてアメリカが開発、運用した軽戦車である。約4,700輌が生産され、アメリカ軍の他に戦後は西側諸国に広く供与されて長く使用され、日本の自衛隊で使われた。
 ガルパンでは劇場版の大学選抜チームの所属車、最終章のヴァイキング水産高校チームの所属車が知られており、今回の作例は後者を再現した。
 公式キットはまだ出ておらず、適応キットはイタレリ(下のキット一覧の1)、ブロンコモデル(下のキット一覧の2)、AFVモデル(下のキット一覧の4)の3系統が知られ、タミヤ(下のキット一覧の3)とプラッツ(下のキット一覧の5)の品はイタレリ製品を用いている。これらのうち模型店などで入手し易いのはイタレリ系統のタミヤキットであるが、劇中車に合わせるならば幾つかの改造や追加工作が必要となる。なお劇中車に近いのはAFVモデルのキットであり、改造や修正のいずれも最低限で済む。
 なお適応キットには米軍仕様と英軍仕様とがあるが、劇中車は米軍仕様なので、下のキット一覧には米軍仕様のキットのみを載せた。

  公式および適応キット一覧(2024年7月現在) 黄帯が今回の使用キット  


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新潟ビゲン高校 ランズベルクL-60軽戦車 作ります!! その1

2024年07月03日 | ガルパン模型制作記

 私のガルパン車輌プラモデル製作は、アニメだけでなくコミック版にも登場する戦車を対象にしています。数の上ではコミック版の登場車輛のほうが多彩で数も多いため、2023年度においても幾つか作っていました。その1輌が上図の「リボンの武者」に出ていた新潟ビゲン高校チームの戦車でした。

 この戦車のことは、2019年秋に同チームのStrv m40L軽戦車を製作した際、スウェーデンのアーセナル軍事博物館と質疑応答を交わして親切丁寧な御指導をいただいた折に、上図の画像を送って問い合わせたのに対して「It is L-60, a prototype of Strv m/38, code L-60a.(これはL-60で、Strv m/38のプロトタイプであり、コードはL-60aである。)」と説明いただいたため、Strv m40L軽戦車の製作記事の1項目にて「Strv m38軽戦車」として紹介していました。

 ですが、当時はその後に続いた説明文「The L-60a has the same specifications as the L-60, but was delivered to the Irish Army, so it has an a in the code.」をあまり重視していませんでした。和訳すれば「L-60aは仕様がL-60と同じで、アイルランド陸軍向けに納品したので、コードにaを付けています。」となりますが、後日にそれを読み返して、あれ、Strv m38軽戦車の初期形態はL-60と同じなのか、と気付きました。

 つまり、Strv m38軽戦車はスウェーデン本国での分類ではアイルランド陸軍向けのL-60aから始まっており、スウェーデン陸軍向けに生産された分は砲塔が大型化するなどの改造が施されてL-60sのコードがあてられています。そしてL-60aはL-60と仕様が同じであるので、上図の描画の戦車はL-60つまりスウェーデン・ランズベルク社の開発した軽戦車の1934年型と同じである、ということになります。


 上図は、アーセナル軍事博物館からの説明文に添えられていた画像です。L-60の最初のモデルであり、車体前面にL601の車番が見えるので、1935年にアイルランド陸軍に納入されたL-60a二両の1号車と分かります。

 これが、リボンの武者の作中車のモデルであり、実物は現在もアイルランド・ダブリンの国立博物館の分館であるコリンズ・バラックに展示されている、ということです。

 

 これがアイルランドに現存しているL-60です。アーセナル軍事博物館の説明では、アイルランド陸軍向けに納品した車輌としてL-60aのコードを付けていますが、仕様に変化はありません。近年にレストアされて動態保存されているそうで、イベントや軍事パレードなどに出ているそうです。

 

 つまりはランズベルク社のL-60軽戦車そのものであるわけですが、それが「リボンの武者」にて新潟ビゲン高校チームの保有車輌の一種としてStrv m40L軽戦車とともに描かれています。それで、Strv m40L軽戦車を苦労して製作した後で、いずれはこの車輌も作ろうか、と考えました。

 

 ですが、唯一のベースキットとなる上図のホビーボスのハンガリーの38MトルディⅠ型(A20)のキットを入手出来たのは、それから3年後の2022年の冬でした。しばらく間があいてしまったのに加えて、その頃には最終章シリーズの登場車輌の製作に注力していたこともあって、L-60軽戦車の製作は後回しとなりました。

 そうして2023年9月に、ようやく上図のキットの箱を開けたわけでした。

 

 中身です。Strv m40L軽戦車の製作時にも同じキットをベースとして使いましたので、今回もほぼ同じ工程で進めることになりましたが、今回は原形のL-60に戻す形となるので、車体や足回りはほぼそのままで改造は操縦席ハッチ部のみ、砲塔もL-60の初期形態に戻す、という流れになりました。
 なので、作業工程そのものも、あちこちを改造しまくったStrv m40L軽戦車の時よりは、はるかに楽だろう、と思いました。

 

 今回のキットの組み立てガイドと塗装見本図です。作中車はカラー図がありませんので、車体色などは不明です。それで思い切って現存するアイルランド陸軍車輛のカラーでいってみよう、と思いつきました。ブルーグレー系統のカラーの車輛はガルパンではあまり無く、聖グロリアーナ女学院チームのクルセイダーぐらいしか思いつかないからです。

 

 ステップ1では車輪類を組み立てます。ステップ2では下部車体を組み立てます。キットの38MトルディⅠ型(A20)はL-60の車体と足回りをほぼそのまま踏襲しており、操縦席ハッチ部のみを外側に拡張しただけですので、大体はガイドの指示通りに組み立ててゆきます。

 

 ステップ1で組み立てる車輪類のパーツです。

 

 組み上がりました。

 

 ステップ2で組み立てる下部車体のパーツ類です。

 組み上がりました。  (続く)

 

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伏見城の面影11 南禅寺金地院へ

2024年07月02日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2024年2月3日、水戸の友人U氏と二度目の旧伏見城移築建築巡りに出かけました。前回の解散時にU氏が「次は長楽寺だな。来年の春ぐらいに必ず行こうぜ」と話していたのですが、その長楽寺よりもちょっと気になる寺がある、というので、今回はその寺、南禅寺金地院へと向かいました。

 朝9時、いつものように祇園四条のカプセルホテルに前泊してきたU氏と、上図の地下鉄蹴上駅にて待ち合わせました。向こうは30分ほど早く来たとかで、上の蹴上インクライン跡を見物してきたところだ、と言いました。

 

 蹴上駅から三条通を少し下ったところにある、「ねじりまんぼ」と呼ばれるレンガ造りの蹴上トンネルをくぐりました。U氏は「南禅寺へ行くならこのトンネルを通っていくと気分が出るな」と楽しそうに言いました。

 

 トンネルを抜けて南禅寺の旧境内地の路地を進みました。左手には智水庵の白い土塀が続いていました。智水庵は南禅寺界隈別荘庭園群の一つで、加賀藩家老の横山家出身で明治・大正時代の金沢を代表する実業家の一人であった横山隆興の京都別邸であったところです。

 

 そして右手には何有荘(かいうそう)の門が見えました。これも南禅寺界隈別荘庭園群の一つで、明治になって廃された南禅寺塔頭の跡地に築造されている約六千坪の大庭園です。明治三十八年(1905)に染色事業や映画興行で有名な実業家である稲畑勝太郎が所有し、最初は「和楽庵」と名付けましたが、その没後の昭和二十八年(1953)に宝酒造中興の祖である大宮庫吉が買い取って名を「何有荘」と改め、現在に至っています。

 

 続いて左手には南禅寺塔頭であった大寧院、法華終寺の境内地が生垣に囲まれて見えました。これも南禅寺界隈別荘庭園群の一つで、庭園は茶道藪内家の十一代当主竹窓紹智氏による作庭です。長らく非公開でしたが、2019年春から期間限定で公開され、現在は春と秋の二度の公開期間が設定されているようですが、U氏も私もまだ入ったことがありません。

 

 大寧院、法華終寺の境内地の北隣には、上図の金地院東照宮の楼門が建っていました。徳川家康の遺言で建てられた三ヶ所の東照宮の一つで、家康の遺髪と念持仏を祀っています。南禅寺金地院の境内地に含まれるため、拝観は金地院と一括で行われています。

 

 その金地院の山門が見えてきました。

 

 南禅寺金地院の山門です。U氏が「ついにやってきたぞ」と嬉しそうに言いました。

 今回のコースを長楽寺からこちらに変更したのは、前回のラストであった正伝寺本堂の見学後、正伝寺本堂が旧伏見城より南禅寺金地院に移築され、それが正伝寺に再び移築された経緯を調べたU氏が「最初に移築されたのが南禅寺金地院ならば、何か痕跡が残ってるのかもしれんな」と言い出し、「ちょっと気になるなあ」と何度も繰り返したからでした。

 

 確かに、正伝寺の寺伝によれば旧伏見城の書院の建物を南禅寺金地院に移して、大方丈および小方丈としたうちの小方丈を後に正伝寺に移して本堂および方丈にした、といいます。大方丈のほうはそのまま南禅寺に有って現在に至っているということになりますが、それが本当ならば、南禅寺金地院大方丈も旧伏見城の遺構である、ということになります。

 南禅寺金地院の寺伝でも、いま国重要文化財の大方丈に関して、金地院を中興した以心崇伝(いしん すうでん 金地院崇伝)が慶長十六年(1611)に将軍徳川家光から伏見城の一部を賜って移築したもの、と伝えています。

 しかし、慶長十六年当時の将軍は徳川秀忠であるので話が合わず、しかも現在の大方丈には移築の痕跡がみられないそうです。以心崇伝本人の日記である国重要文化財の「本光国師日記」には大方丈造営の顛末が細かく記されており、寛永四年(1627)に建立されたものと推定されています。

 それでU氏が「ちょっと気になるなあ」と話していたわけですが、同様に私も気になっていたのでした。  (続く)

 

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