「心を洗う」という名言に出会った。
心療内科医の海原純子さんのエッセーで、毎日新聞サンデー版(日曜クラブ)に掲載されていた。
節分の豆まきに関して、海原さんは・・・
鬼は自分の中から生まれることが多いのだ。心の中を常に観察し、汚れたら洗う。
手を洗うたびに心も洗う習慣をつけると、心に鬼が生まれなくなるのではないか。
素敵なことに出会ったりすると「心洗われる」とよく言うが、自分で自分の心を「洗う」とは、あ
まり聞かない。
それだけに「心を洗う」は、新鮮で含蓄のある言葉に思えた。
昨今のコロナ禍の下で、手洗いの大切さが見直されている。
スーパーなどに入るときは必ず手を消毒、帰宅すればまた丁寧に手を洗い、うがいも欠かせない。
もともと清潔好きな日本人、コロナ感染防止のためと改めて言われなくても、この程度の衛生習慣
は、ほとんどの人は持っている。
でも、衛生観念が世界トップクラスの日本社会で、医療従事者や感染者にたいして「コロナ差別」す
る人たちが後を絶たないという。
自分の心を洗っていないからか、心の方の衛生観念は十分ではないということか。
さて80年も生きてきたので、わが心にもかなり垢が溜まり汚れた。
知らぬ間に、心の中に「鬼」を育ててきたかもしれない。
さて、どうやって洗い流すか・・・
こもう一つ、なるほどと思わせる言葉。
最近、内館牧子さんの「十二単を着た悪魔 源氏物語異聞」(幻冬舎文庫)を友人に借りて読んだ。
その中で須磨明石に流された光源氏が「想い供養」を語っている。
故人のことをね、私の方から想うんだ。亡くなった人の方から現れるのではなく、
私の方から想うんだ。何気ない暮らしの中で私の方から想い出す。できるだけ何
回も。それが何よりの供養になるのではないかと気づいてね。
朝夕、仏壇にお茶を供え手を合わせているが、「想い供養」を欠かせないようにしよう。
昨日、お寺から3月お彼岸法要訪問の日を知らせてきた。もうそんな季節になるのだねえ。
<春の目覚め点描>
うっすら緑衣まとう枝垂れ柳
早咲きツバキ
このお方はまだ冬眠中