おかあちゃん(高齢者のガン)私のオッパイ(石灰化)??? とワン子

2006年8月母は肺がんと診断される。完治目的の定位放射線治療を受ける。

ガンの治療は日々進歩している。≪4≫

2007年10月15日 03時52分33秒 | 母の事(肺がん) そして絆
定位放射線治療4日目 ≪2007.11.2≫
母を時間前に放射線室まで車椅子で送っていく。
今日で最後だ。今のところ母には何の異常もなくいつもどうりだ。
先生が出てこられて母を託す。
母が放射線室から出てくるまで私はいつものように待合にいる。



治療を終えた母が車椅子に乗って出てくる。
先生にご挨拶して病室に戻る。後で話があると言われた。
放射線室は地下にある。車椅子で行けるようにスロープになっている。
スロープを車椅子を押しながら母に話し掛けた。
「お母ちゃん。よかったね。もう終わったな。」私は嬉しかった。
母は助かった。これで私が望んだとうりに肺がんで死ぬことはない。
母は「本当にこれで終わったんか。お薬も何にもないのんか。」って。



夕方、先生からお話があった。
「これで治療は終わりました。では明日退院されますか。」
エー。って思った。これでいいの。もうお終い。
「入院の予定は10日までになっています。私は今日治療が終わってすぐに退院は心配です。」っと。
先生は「大丈夫です。もう普通の生活をしてください。で、明日退院されますか。」
私は「今日は11月2日です。3日は祝日4日は日曜日です。ですから月曜日の退院でお願いします。」
退院は11月5日月曜日に決まった。


≪今日の母≫
16日にK大学病院へ行く。
9日にCTをA病院で撮ったのを持っていく。
A病院の担当医師は「変わりないですよ。」と言ってくれ安心した。
けれど、CTを自分の目で確かめてみようと思った。
7月の時より影は大きくなっていた。よく見た。
PCにスキャンして見た。2つを重ねたがやはり大きくなっている。
もう寝られない。1人悶々としていた。
翌日の土曜日。私は近所の医師にCTを見てもらった。
「いい感じ。よくなってるよ。」と言われ安心した。
だけどやっはり心配だ。

ガンの治療は日々進歩している。≪3≫

2007年10月10日 01時23分02秒 | 母の事(肺がん) そして絆
母の2006年11月1日
 ≪3日目の定位放射線治療≫
その日の私のメモから。
母は気分がいいらしい。「痛い?しんどい?治療はつらい?」
と立て続けに聞く私に「この治療は本当に何にもつらくないし、痛くもないの。」と。よかった。先生には痛いつらいの治療は望みません。
でも、治してやりたい。と大変なお願いをした。
あきらめなくてよかった。本当にそう思う。
心から叫びたい。よかった。私は諦めなかった。と。

私は母を放射線室まで送って行き先生に「お願いします。」
と母を託し放射線室から出てくる間の気持ちは言葉で表現出来ない。

去年の今ごろの私は本当に辛かった。
母の治療を断念してこのままにする選択肢なんて考えられなかった。
今も私は 母の一挙一動に心迷わされる毎日を送っている。
咳をしても胸を擦っていたりするのを見ても心穏やかにはいられない。もしかして。と。
その思いが母には通じるらしく「何ともないし。咳ぐらい出るわ。」って。
ちょっとうるさそうにする母が愛おしい。
現在はそんな幸せな日々を送っている。

≪本日の母≫
今月で≪定位放射線治療≫
を受けて1年になる。
A病院にCTを撮りに行く。
CTは予約時間が決まっているが、診察にはCTが出来るまでと診察の順番を待たなければならない。CT予約時間9時15分。
診察までには3時間以上かかった。(先生も大変なんだな。)
時間待ちの間に「まだやな。長いな。」と母と話しているといろんな方が話し掛けて来られる。これが結構 いろんな情報を知ることも出来る。そして患者さんの生きた話も聞ける。
前に呼吸器をつけた男性76歳と言われた。
今は外出するのは病院に来るときぐらいです。でも食事もおいしく頂いています。とても楽しく生活しています。生きていてよかった。
と言われた。それが人ごとには思えず嬉しかった。

母の診断の結果は、変わりはありません。との事だった。
まずは一安心。
母を診断して下さる先生はCT画像を見ながら話してくださる。
これが私や母にはとても安心できる。
今日は胸部のCTも撮った。それでその事も質問した。
「異常はないと言ってきています。」との答え。
(レントゲン技師の意見だと思う。)
私は乳がんの疑いでこの病院で検査中だが9月にMRIを撮った際に担当医師は「異常は認められないと言ってきています。」とフイルムを見ることもない。以前もそうだった。この事に私は違和感を持っていた。フイルムを借り出してもう1つの病院で見てもらったら異常は有ると言われた。
先生にその事を柔らかく伝え母の胸部のフイルムも先生に見てもらい先生の意見を聞きたいと告げた。
先生はフイルムを出して専門外だがと念を押した上で説明して下さった。知識のない私にはこうした事がとてもありがたいし安心につながる。
このフイルムを持って来週 K病院へ行く。

ショックです。オッパイの手術です。

2007年10月06日 03時42分18秒 | 乳がん記録
オッパイの手術日が決まりました。
10月25日です。ショックです。
A病院では、ガンと思われた場所から、ガンは消えている。
と言われたが、乳腺クリニックのN先生は「消えてなんかいないよ。」
って。だから、今日は念入りの調べた。
「針刺して調べるかな。」と言われたので、私から
「当初の予定どうり 取って調べてください。」とお願いした。

※※※私が今日思った事※※※
「大丈夫です。」って言葉は響きがいい。
こっちを信じたかった。そうしようとしてた。
でも、N先生の診断も受けてみようと思ってた。
受けてよかった。A病院の診断だけだったら
来年のドックの際には 大きくなっていたかも知れない。
その時A病院はどう私に説明するのだろう。
どんな説明を受けたって・・・。そう思うと怖い。
今日 N先生の診察を受けてよかった。

私は前々から思っている事がある。
私達患者っていい先生に巡り合えるって ≪ くじ ≫ のようなものだ。
≪ くじ ≫に当たると助かるけど、当たらなかったら助からない。
どの先生もちゃんと見てくれているとは思うけど。
患者って弱い立場だ。

※※※N先生の診断後 携帯からPCにメールをした。※※※
2007年10月5日 13:56
ショックです。手術です。


※※※これ以上は書けなかった。※※※


*********今日の私***********
ショックだけど何にも考えられない。
涙もないし、先のことも考えられない。
ただ、母のことが頭をよぎった時に目が熱くなった。
でも、まだ検査の段階だからと打ち消した。

ガンの治療は日々進歩している。≪2≫

2007年10月04日 06時29分41秒 | 母の事(肺がん) そして絆
定位放射線治療3日目 2006年11月1日
母の体調に変化はない。
普通の放射線はやけどのようになると聞いていた
がそのような事はない。よく見ると少し皮膚が
赤いかなと言うくらいだ。
母に痛いとかはないらしい。
治療後 病院内の売店へ行って雑誌やかわいい
薬箱・あめなどを買った。
外はとてもいい天気だった。
母によると「結構な治療」だという事だ。
放射線治療と聞いてどんな風になるのか
不安だった。
この時点で不安はなくなりつつあった。

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病気が判明するまでに母に咳き込みが
あったりの自覚症状はなかった。少し前から
私は母が寝ている時に胸に手を当てたり
擦ったりするのをいやな感じで捉えていた。
母には伝えたが、無意識にしているらしく
気にしていなかった。

「ちょっと しんどい(体調が悪い)」
と近所の医院へ行った。
極度の貧血があった。腫瘍マーカーを調べた結果。
CEA値が高かった。
母に先生が私に話たいからと伝えられた。
母は私に言わなかった。
何も知らない私は「どうやった。」と聞いた。
「分らへん。もうあの医院へは行かへん。」
と母は言った。
後日 看護士さんから自宅に電話が入った。
すぐに医院へ行った。
私にはその時何の知識もなかった。
先生から消化器系統に異変があるだろう。と。
すぐに病院で検査したほうがいい。
先生ははっきり言われなかったが
その時に私はガンの可能性は大だと感じた。
私は自分を責めた。
何で気がついてあげられなかったのかと。
異変発覚から1ヶ月経過していた。





ガンの治療は日々進歩している。

2007年10月02日 11時29分10秒 | 母の事(肺がん) そして絆
ガンの治療は日々進歩していると感じた。
母は定位放射線治療の際にお風呂に入る事も許可された。
胸にマジックで書いてある印は消さないようにとだけ注意された。
食事も変わりない。ただ母の体は小さく 
135センチ 35キロで食はもともと細い。

病室に1人いては 気が滅入っても。
と思い外へ連れ出した。
病院内の散策だ。K大学病院はとても広いので
毎日飽きなかった。

この日も、飛行船が見えた。
本当に不思議だった。飛行船ってそんなに
見るものではないから。私も何年ぶりかに見た。
母は喜んだ。きっと母の気持ちの中で《いい事》
がありそうだったんだと思う。

体調はまったく変わらない。
たまに気分が悪くなったりする人も
いるのでと先生は心配して下さった。

隣りの病室に同じ日に入院された方がいらしゃった。
歳は60歳前くらいの女性だ。母と同じ肺がんだった。
この方は乳がんで以前胸を取られていた。
「私は、兄弟の中で1人小さい頃から病気ばかりしてきた。
でも、まだ生きたい。前の病院ではこのままに
しておくしかない、と言われた。」
生きたいという気持ちを伝えこの病院を紹介
されたのだそうだ。転移ではないとの事。
頑張っていただきたい。
放射線室には母が終わる頃に来られる。

こうして2日目が過ぎた。

ガンが切らずに治療

2007年10月01日 11時54分26秒 | 母の事(肺がん) そして絆
定位放射線治療とは切らないで治す方法です。
ガンが切らずに治療後の後遺症もほとんどないのです。
この夢のような治療は数年前までは保険診療の対象外でした。
母はこの治療が受けられました。私は保険で受け
られなくてもお願いするつもりでした。

早期発見がこのように体にやさしい治療を受けられるのです。
母のように高齢者であったり体の都合で手術の出来ない人。
そして初期の場合は手術より社会復帰も早く
抗がん剤もいらないのです。そして何より 
今までとほぼ同じ生活が送る事ができます。
食事制限もありません。

もし、あなたの周りでこんな人がいたら
教えてあげてください。
手術だけがガンの完治ではありません。
今は部位によって受けられる制限はあります。
でも、10年いや5年もすれば初期であったなら
切らずにガンは治ると思います。

私もそれまで乳がんと闘います。