横綱栃錦は、私が通っていた小学校の第1回卒業生でした。
小学生の頃、相撲が好きだった私は、横綱になる前の栃錦の得意技であった「出し投げ」を研究して自分の得意技にすることに成功した。
それからの私は、出し投げを使って高い勝率を得ることが出来ました。
栃錦のライバルといえば、同じく小兵の若乃花であり二人が横綱であった13場所中10場所でどちらかが優勝しています。
私は小学校の大先輩である栃錦を応援しましたが、クラスには若乃花フアンも何人かいて、彼らとの対戦では「出し投げ」と「呼び戻し」の技の応酬となりました。
栃錦は引退後は春日野親方となり、審判部長・事業部長などを経て昭和49年理事長になりました。
理事長になってからは新両国国技館への移転という相撲協会にとっての大事業に際して、これを無借金での建設、椅子席観覧客の待遇改善、相撲茶屋制度の改革などを、二子山事業部長(若乃花)の助けを借りながら実現させました。
平成元年11月、九州場所の開幕直前に脳梗塞で体調を崩し、福岡市の病院で停年を目前にして平成2年1月10日死去。64歳でした。
新聞で亡くなったことを知った時、栃錦(本名:大塚清隆)の少年時代をよく知っていた祖母が、テレビの相撲中継を見ながら「栃錦はおしりにバンソウコウが貼ってある場所は調子がいいんだよ」とよく言っていたのを思い出しました。
今も相撲は好きですが、早く日本人横綱が出現して欲しいという気持ちが日増しに強くなっていく今日この頃です。