ロイヤルモータースとその仲間たち

車と釣、ハイキング、トライアスロン、神戸、三田の歴史や情報を発信します。 

雲の上の町

2008-01-31 20:25:48 | 山本店長のブログ

雲の上の町・・・なんとなくロナンチックな町ですね


どこにあるの?


子供があそんでる


向こうにロイヤルモータースのカーコンビニ倶楽部の看板が見えています
こんな近くに素敵な作品があります。 ご来店のさいチョット見て下さい
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陰日向に咲く

2008-01-30 19:39:45 | 山本店長のブログ
陰日向に咲く昨日。 映画を観て来ました

台風が近づいて去って行くまでを物語りに絡ませてうまくできた作品です。
おちこぼれておれおれ詐欺をしようとして逆に同情する若者、と女弁護士。
エリートサラリーマンと野宿者。 人生の陰日向の人たちの全く関係のない人たちが台風をとうして人生がからまって最後に奇跡が起きる。
最後に親父と息子が記念撮影をするところに、この物語を象徴してるシーンがあります・・・チョット観てからのお楽しみ
笑いあり涙ありの爽やかなところがストーリーの不自然をカバーしてました。

宮崎あおいさんとチョットメタボの三浦友和さん、いいアジだしてましたね。 

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親子三代 その3

2008-01-29 18:15:40 | 山本店長のブログ



たつの市の渋谷様
娘さんにバモスを納車しました。 
亡くなられたお爺さまがロイヤルモータースの近くに住んでおられ、その時からたつの市に変わられて今も息子さん兄弟、お孫さん兄弟と何台も乗り換えていただいています。 また叔父さんで篠山にすんでおられる。 藤岡さまも何台も乗り換えていただきました。
本当にありがとうございます。 今後とも末永くお付き合い下さい。

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残念・・・知ってたのに!

2008-01-27 23:04:56 | 山本店長のブログ
 広辞苑に「芦屋」を平安時代の歌人在原行平(ありわらのゆきひら)と愛人二人の伝説の舞台とする誤った記述があると新聞に載っていました。
ロイヤルモータースニュース14年春号で掲載した月見橋(松風・村雨)の中の須磨の伝説として掲載しています。
ようこそロイヤルモータースへ
広辞苑が50年も間違って掲載している事を知りませんでした.
おそらく行平を、芦屋に別邸があったとされ地名にもなっている弟業平(なりひら)と間違えたらしい。

在原行平・業平・・・・平安時代に活躍した歌人の兄弟。 父は平城天皇の皇子阿保親王。 臣籍降下して在原氏を名乗る。 兄の行平は紫式部の「源氏物語」の主人公光源氏のモデルといわれる。 最古の歌合「在民部卿家歌合(ざいみんぶきょうけうたあわせ)を主催した。 弟業平は六歌仙、三十六歌仙の一人。 容姿端麗で後に美男の代名詞にもなった。 「伊勢物語」では、業平を思わせる主人公が、都から芦屋の別荘に訪ねてきた行平と布引の滝へ出掛ける場面もある。 
身分も高く金持ちで、教養もあり,しかもイケメン兄弟、紫式部も清少納言も「参りました。 」と言うところか?
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これはな~んだ?

2008-01-26 15:07:07 | 山本店長のブログ

長さ20センチ 直径10センチ の筒。 これはなんでしょう?



〇〇ベルで買ったブレーカーでした。
軽くてコンパクトに収納できます。



雨でもよさそう・・。 これで今年はハイキングに行くぞ。
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阪神・淡路大震災 私の体験記 その8

2008-01-25 23:21:59 | 阪神・淡路大震災 私の体験記
19日
 秀也君の葬儀は午前中に行われ、前日から秀也君の兄弟が、大阪に住んでいる彼の婚約者を車で連れてきました。 一日かかったそうです
 単独の葬儀は彼が最後で隣の部屋では合同葬儀が行われていましたが、その葬儀は家族が少なく、地震で皆大変な状況に置かれていて葬儀どころではなかったと思われます。
 秀也君の部屋は小さいですが彼の友人たちで溢れていました。 窮屈な棺に入った彼を、いつまでもしがみ付いて泣く彼女を吉川さん(秀也君の母)が慰めているのはいたいたしかったです。 一週間前に婚約したところなのに、こんなことになるとは誰も予想もしていませんでした。 この震災で一瞬にしてこのような不幸なことが、あっちこっちで多くあったと思います。 
 午前中で秀也君の葬儀が終わったので、気になる長田区の店長を探す事と、オートプラッツ(中央区岩屋)の店の様子を見に行くことにしました。 
 長田区に入ろうとしたらビルが倒壊しそうなとこや家が倒壊して道をふさいでいでいるし、大渋滞のうえ火災が発生して近づくことができません。
 やっとのことでオートプラッツに着くと目の前の国道2号線と国道43号線の合流部のオーバーブリッジが倒壊し、横の神戸製鋼のビルの一階が押し潰されて、後ろの阪神高速道路も基礎部分が崩れていました。 地震の凄まじさを見ました。 幸い車が同じ方向に2m移動して端の車が事務所にぶつかっているだけでした。 フレハブの小さい事務所は時計が落ちて4時46分を指したままで事務用品が散らばり車とぶつかったところがへっこんでいました。 
 車が通行できる状態ではないので暫くはそのままにして帰ることにし外に出ると、京都から自転車で来たと言う人いて水をポリタンクにいれてわざわざ運んできたとか。 困った人がいたら分けるつもりらしいので、避難場所の学校を教えてあげました。 テレビを見てじっとしてられなかったそうです。 今回の震災ではボランテアの方々に大変お世話になりました。
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阪神・淡路大震災 私の体験記 その7

2008-01-24 23:09:48 | 阪神・淡路大震災 私の体験記
 西宮の実家には7日後にやっと行けました。 
盤滝トンネルが一部崩壊しているので、船坂峠を迂回していったのですが、大渋滞で40分で着くところ3時間かかりました。 途中、岡山の従兄弟(伯母さんの息子)とすれ違い、といっても車が動かないので立ち話で、彼も心配で実家の様子を見にきたらしいのです。 
 私の実家は大丈夫でしたが、近くの伯母さんの家が全壊し実家に非難、甲東園の従姉妹の家も全壊し50mはなれた親戚の家に、それぞれ非難していました。 
 食事は近くの中学校にパンをもらいにいってるみたいでした。  とりあえず、けがもなく、命が助かってよかったと言ってました。
 行くときにいつもタックス兵庫の会議でお世話になっている中華料理の花咲く街角のママに特別にチャーハンを作ってもらい、持って行くと伯母さん達が3時間もたってさめたチャーハンをこんなあたたかい食べ物久しぶりと言って涙ぐんで食べるのです。
 お金があっても店が開いてないので一週間、朝、昼、晩 近くの中学校に行ってパンをもらって食べていたそうです。
 伯母さんは一階に寝ていたのですが幸い両側にタンスあって隙間に寝ていて助かったそうです。 父が様子を見に行くとまだ寝ていたそうです。
 一階から二階を覗くと天井の崩れたところから空がみえました。 無事だったのが奇跡です。
 甲東園の従姉妹が家に大事なもがあるので取りに行きたいと言うのでいしょに行くと彼女の家も家全体が30センチずれて二階に寝ていた彼女と一階に寝ていたお母さんとお互い声を掛け合って3時間後に脱出したそうです。 
 家の周りを指さしながらここも、あすこも埋まって亡くなったと説明していると、車の中に男性が鍵を掛けて外から奥さんがドアを叩いている。
 事情を聞くと四国からお父さんの様子を見に来て絶望して「死ぬ」と言っているらしい。 
 灘区でもネクタイをしたおじさんが渋滞で動かないのに、交通整理のまねをしているのを見かけたが気の弱い人や、優しい人達が精神がおかしくなったんだろう。 何とか話はしたが、こちらもそれどころでないので引き上げた。  
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ぶらぶらのつもりが?

2008-01-23 19:56:53 | 山本店長のブログ
ひさし君こと技香編集長とハイキングの記事の取材をしようと約束したのですが、昨日までインフルエンザで寝ていたそうで五社のあたりを「ぶらぶら散歩道」でお茶を濁すつもりで五社八幡神社から取材を始めました。 たまたま掃除をしているおじさんがいましたので話をお伺いしました。  神社は前回取材したとおりですが、横の小屋が農村歌舞伎の舞台みたいなのでお聞きそますと、やはりそうで昭和30年代頃まで田舎芝居をしていたそうです。 田舎芝居ってなんですか、とお聞きすると自分たちで練習してえんじていたそうです。 いまはぜんぜん使われていないのですが、痛んできたので去年修理したそうです。 


コメント (2)
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阪神・淡路大震災 私の体験記 その6

2008-01-22 12:55:47 | 阪神・淡路大震災 私の体験記
 ☆17日のことはかなり鮮明に記憶していますが13年以上前の事であいまいなところもあり、記憶が無くなっているところもあると思います。 又、時間や日時が前後したり数字が多少間違っている事もあるとおもわれますが、おおよそのニュアンスをくみ取って下さい。
 ☆最初にも述べましたように出きるだけ客観的に事実のみを記して感情を抑えているつもりですが、多少のことはお許し下さい。
 ☆プライバシーの問題もあり述べることが出来ない部分もあります。

18日
 夜中じゅうサイレンが鳴りっぱなしと余震でよく眠れなかった。
 朝会社に着くと有馬街道(会社の前)を他府県ナンバーのパトカー、救急車、消防車がひっきりなしに走っています。
 阪神高速(大阪ー神戸間)、名神高速(西宮ー吹田間)、中国縦貫道(西宮ー吹田間)、が不通でJR、各私鉄も全て神戸、阪神間は不通になっていたため、神戸、阪神間に入る唯一の道になっていました。 
 そのため有馬街道が重要な道になり、17日はほとんど車両は走ってなかったのですが、43号線、2号線が不通になった為九州、中国地方や関東、北陸地方も全て有馬街道を通過して神戸、阪神間に入って行きました。 最初は緊急車両、救援物資を運ぶ自衛隊やボヤンテアの車両など、「一般車両の用事のない車は神戸市内、阪神間のに入るのを自粛しよう。」とキャンペーンしていたが通勤、復旧で大渋滞でした。
 三田方面の従業員は被害がすくなかったため、彼らに会社のことまかせて私は秀也君の葬儀の準備をした。 
 電話が無理なので公衆電話を利用した。 そのとき公衆電話のみいつも使えるのを知ったが最近、携帯電話が普及し当時より更に公衆電話が減ってきているのは問題だと思う。
 犠牲者が多いので葬儀は急がなければと19日の午前中とした。
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阪神・淡路大震災 私の体験記 その5

2008-01-21 01:03:51 | 阪神・淡路大震災 私の体験記
午後8時
 あと二つのお寺を回ったが、状況は同じで身元不明の遺体もあり無理と判断し彼のアパートに行くと、息子たちがいて、畳の遺体を指差して「秀也君や。」と言う。 先ほど奥さんや私たちが彼の顔を見たが今から考えると、なんとか生きてほしい願望と圧死とで違う顔に見えたらしい。
 私は吉川さんが意外に冷静なので安心した。
 息子たちがワゴン車に乗ってきているので家に運ぼうとしていると、役所の方らしい人が「検視をしなければならないので、高鷲小学校に運んで、 そして遺体は明日とりにきてほしい。」と言うので、学校へ行くと学校は真っ暗で、引っ切り無しに救急車が遺体を運び入れている。
 地震で階段が浮き上がったところを登って廊下に入り懐中電灯で教室を覗くと全ての机に、机ひとつに遺体ひとつがのっている。
 そして足になにかがあったて見ると壁を隔てて暗い中に着の身着のままで非難している人達がいてびっくりすると同時に胸が痛んだ。
 どうみても、食事が出きる状態ではない。
 偶然、検視官が来て検視をしていただいた。 死因は圧死で即死だそうだ。 検視が終わったので今連れて帰る許可をもらった。
 検視官が吉川さんに書類を渡し記入してと言うが書けない。 では確認のために住所、氏名、電話番号を尋ねるが全く出てこない。 
 家内が代わりに答えたが、冷静ではなく、あまりのショックのため、全く思考能力が無くなっていた。
午後11時
 吉川さんの家に秀也君を運び入れた。 そして知り合いの僧侶に葬儀屋さんを頼んだが来れる状態ではないらしい。 しかも棺桶がなく小さいのをひとつ確保してくれた。 しかも単独の葬儀はこれが最後で後は合同になるそうだ。 
 僕たちは家に帰ったが家内は吉川さんと一緒に葬儀屋さんが来れないので見よう見まねで体を拭き化粧をして寝かせてあげたらしい。
弟に礼を言おうと連絡するが無理だった。 後で判った事だが、その後、彼の近くのガスタンクに亀裂が入って、小学校に避難していたらしい。
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