神戸市北区八多町は広いです。 面積は神戸市長田区の2倍あります。
八多町の由来は渡来系の豪族「秦氏の」移住したところが「八多村史」などで通説になっているが「羽田氏」「八多氏」の説もある。 平安時代既に「八多荘」と言われ皇室領で摂関家に伝承されている。 (八多町の由来)
神戸市北区の伝説「多町の千本地蔵」
豊臣秀吉が天下を治めていたころ大蔵山奥蔵寺という大層大きなお寺がありました。そこには等身大の美しいお地蔵様がお祀りされていました。僧呂はもとより村人も朝な夕なに、お祀りしていました。ところが豊臣秀吉が三木城主別所氏を攻めた時、奥蔵寺も戦火を受けることになりました。
「奥蔵寺に祀られいた石の地蔵様の一大事、このままでは秀吉にとられ石垣に組まれてしまう。もったいないことだ。何かよい知恵はないか」と話し合いました。どこかにお地蔵様をひとまず寺から運び出し、秀吉の目の届かぬ所へかくまうことにしました。
寺から運び出されてお地蔵様は川底に寝かされ砂を掛けて隠されました。さて戦火で寺も宿坊も焼かれた奥蔵寺は段々と荒れ果てていきました。
時代は進みハ多の里も鎮まり、人々の頭の中からお地蔵様のことも段々と消えていきました。
そんなある時、深谷のある人が夢の中で「苦しい、苦しい、私を早く出しておくれ」と呼ぶ声を耳にしました。お地蔵様のことなどすっかり忘れて暮らしていた村人は夜な夜な集まって相談しました。「どのようにしてお地蔵様を川底からお出ししようか」と。
毎日毎日大勢の村人が川へと集まりました。やっと探し当てたものの長い年月川底に居られたお地蔵様である。このお地蔵様を運び出すのに千人の人の力があったとも、又千本の杭が使われたとも言われ、いつしか人々はこの美しいお地蔵様のことを「千本地蔵」呼ぶようになりました。
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