有馬郡
「有馬郡」と呼ばれる行政地区は明治維新までありました。
室町時代播磨の赤松円心の子孫が有馬郡守護となり赤松有馬氏と呼ばれ有馬氏と名乗る。
有馬高校(三田)地の高台に城郭を築き支配の拠点とした。 三田の市街地は有馬郡の中心地として長らく発展した。
江戸時代三田藩九鬼氏が有馬郡の北半分は(南半分は複雑で所領が移り変わる)ほぼ三田藩領でした。
明治維新後1879年三田に有馬郡役所が置かれた。 国は1923年群制を廃止したが行政区画として地理的な有馬郡は残る。
1958年に三田町が市政施行するまで続いた。
*丹波街道と有馬道*
有馬郡の地理を特徴づける要素は武庫川で、支流に有馬川、有野川,八多川などあり農業集落を形成し武庫川の谷沿いは交通路として形成していた。
「丹波路」は大坂と丹波の主要交通路で道場河原は宿駅と指定され幕府公用の書状や人馬の継立や大名の参勤交代などが行きかった。
「有馬街道」は兵庫から三田に至る道で天王谷越えの山道は古くから利用されていたが、道幅も狭く渓流越えも含まれ荷車を通すことが出来なかった。 そこで兵庫と有馬郡の沿道町村が協力して、1874年に神戸、三田の道を修復した。 この三田往還は「有馬道」の俗称でよく知られている。 有馬道の画期的な点は、工事費用を民間調達したことで、新たに運輸会社を設立して物資運搬を請け負い運賃の5%を工事費用に充てたことです。
有馬道は明治初期の民活と地域連携が産んだ歴史遺産です。
(一部は神戸商工会議所の神戸学より掲載)