こんにちわ山本です。
新型スイフトを、奈良崎様にご購入いただきました。
奈良崎様は2年ほど前にダイエー店でスイフトをご購入いただいてからのお付き合いで、
オイル交換や車検・修理など当店をご利用いただいています。
今回はオイル交換とパンク修理でご来店いただいた時に、
展示車の新型スイフトを気に入っていただき、ご購入となりました。
新型スイフトは乗り心地もパワーも前の車と全然違うと喜んでいただいています。
奈良崎様、2台目のご購入ありがとうございました。
新型スイフトを、奈良崎様にご購入いただきました。
奈良崎様は2年ほど前にダイエー店でスイフトをご購入いただいてからのお付き合いで、
オイル交換や車検・修理など当店をご利用いただいています。
今回はオイル交換とパンク修理でご来店いただいた時に、
展示車の新型スイフトを気に入っていただき、ご購入となりました。
新型スイフトは乗り心地もパワーも前の車と全然違うと喜んでいただいています。
奈良崎様、2台目のご購入ありがとうございました。
昭和4年
オランダ領東インド ジャワ マラン ガンタン ションボ
齋藤春次雑貨商店 乾燥場
右より 1、不明 2、モス ジャワ人 3、不明 4、キヨ ジャワ人 5、パシロン ジャワ人 6、昇の学校教師 7、齋藤昇(私の伯父さん) 8、大工 ジャワ人 9、齋藤梅子(44才 私の祖母) 10、女中マル ジャワ人 11、齋藤春次(57才 私の祖父)
私の父の事を語るには祖父の事を事実の中から想像をめぐらせながらその一部でも知れば父の精神構造も多少分かるのではと考え祖父の時代背景から考えた。
司馬遼太郎の「坂の上の雲」あとがきより
「明治は、日本人のなかに能力主義が復活した時代であった。
能力主義という、この狩猟民族だけに必要な価値判定の基準は、日本人の遠祖が騎馬民族であったかどうかはべつにせよ、農耕主体のながい伝統のなかで眠らされてきた。
途中、戦国の百年というのが、この遺伝体質をめざめさせた。 そのなかでも極端に能力主義をとったのが織田軍団であり、その点の感覚のにぶい国々を征服した。
能力主義の挫折は織田信長自身が自分の最期をもって証明したが、しかしかれがやった事業は、秀吉や光秀たちの能力伝説によって江戸期も語りつがれた。 能力主義を大勢として否定した時代で、否定することによって封建制というのものは保たれ、日本人たちはふたたび農耕型の精神と生活にもどった。
それが三百年近くつづき、明治になる。」
明治維新から西南戦争の明治元年~10年は日本近代化の始まりの時・・・・祖父は明治7年元前橋藩の家老の子供として生まれている。
江戸時代の名残が色濃く残っている時代で心の底に「武士道精神」が残っていたと思われる。
廃藩置県で前橋藩はなくなるが藩主は後に前橋県知事になっている。
藩主は華族になったが以下の士族は軍人や官僚になるのが多いが幸か不幸か前橋は官軍ではなかったのと島崎藤村の「夜明け前」に出てくる幕末から明治初期の日本の輸出で人気のあった養蚕,製糸が前橋では盛んに行われで製糸業始めた。
大正時代になってからであろう? 南大東島に行っている。
ここは大日本製糖が島全部を支配し製糖業を行っていた。 父が生ませたのは大正7年島の人口が4000人にもなっていた頃である。
参考資料(明治年代表から)
幕末の前橋
安政6年(1859年)の横浜開港は幕末期の前橋に、空前の活況をもたらすことになった。前橋分領では、このころ養蚕・製糸業が発展し、それが開港によって主要輸出品となり前橋に巨利を落とした。
これは幕末期の軍制改革と沿岸警備の負担に悩む藩の財政にも大きく寄与することとなった。このことは、やがて前橋城再築につながってくる。
もともと前橋から川越への移城は利根川の浸食が原因であり、原因さえ除去されれば前橋に居城するのが本来であると代々の藩主は考えていた。
すでに天保年間に郡奉行安井与左衛門によって、利根川の流路を変える大工事が成り、根本原因は取り除かれていた。
あとは再築資金であったが、ここに来ての前橋の好況である。前橋町民が好況を背景にして帰城運動をしたことは間違いないだろう。
加えて参勤交代制が緩和されたことも前橋城再築の動機になり、文久2年(1862年)12月に藩主松平直克は前橋城再築内願書を幕府に提出した。
このときは受理されなかったが、翌文久3年正月、同年7月と再三にわたり内願が出され、同年12月に再築移城が許された。
文久4年(1864年)正月に着工され、3年3ヶ月余りを費やして、慶応3年(1867年)に一応の竣工を見る。しかし半年後には版籍奉還を迎えるのである。
一方、松平氏は家康二男の流れを汲む譜代の名門であり、直克は佐幕であったといわれる。文久3年(1863年)9月に幕府用談所への出仕を命ぜられ、10月には政事総裁となり、元治元年(1864年)には将軍家茂とともに京に上っている。
この頃の直克の考えは、開港場を長崎、箱館の2港として横浜は鎖港とし、攘夷派を押えつつ朝廷に対して幕府の立場を守るというものであった。
しかし水戸斉昭や幕閣は直克の案に反対し、直克は免職とされ、その後は幕府とは距離を置くようになった。
ただ、江戸湾内台場警備や水戸浪士討伐への出兵など幕命には素直にしたがっている。
慶応4年(1868年)将軍慶喜が江戸に戻ると、直克は将軍家の善後処理について建言し、上京して朝廷に対して徳川家の相続について寛大な処置を願っている。
同年閏4月に前橋に帰城、東山道総督に恭順し上野一円の鎮撫を命ぜら、三国峠や会津国境で会津軍と戦火を交えている。
明治元年10月に江戸市中の会津軍残党の取締りを命じられる。一方、戊辰戦争が終結をみた前橋では養蚕や製糸業の近代化が急速に進み、これが明治初頭の前橋を支えることになるが藩はまだ新しい前橋城とともに廃藩置県により消え去った。
***次回に続く***
オランダ領東インド ジャワ マラン ガンタン ションボ
齋藤春次雑貨商店 乾燥場
右より 1、不明 2、モス ジャワ人 3、不明 4、キヨ ジャワ人 5、パシロン ジャワ人 6、昇の学校教師 7、齋藤昇(私の伯父さん) 8、大工 ジャワ人 9、齋藤梅子(44才 私の祖母) 10、女中マル ジャワ人 11、齋藤春次(57才 私の祖父)
私の父の事を語るには祖父の事を事実の中から想像をめぐらせながらその一部でも知れば父の精神構造も多少分かるのではと考え祖父の時代背景から考えた。
司馬遼太郎の「坂の上の雲」あとがきより
「明治は、日本人のなかに能力主義が復活した時代であった。
能力主義という、この狩猟民族だけに必要な価値判定の基準は、日本人の遠祖が騎馬民族であったかどうかはべつにせよ、農耕主体のながい伝統のなかで眠らされてきた。
途中、戦国の百年というのが、この遺伝体質をめざめさせた。 そのなかでも極端に能力主義をとったのが織田軍団であり、その点の感覚のにぶい国々を征服した。
能力主義の挫折は織田信長自身が自分の最期をもって証明したが、しかしかれがやった事業は、秀吉や光秀たちの能力伝説によって江戸期も語りつがれた。 能力主義を大勢として否定した時代で、否定することによって封建制というのものは保たれ、日本人たちはふたたび農耕型の精神と生活にもどった。
それが三百年近くつづき、明治になる。」
明治維新から西南戦争の明治元年~10年は日本近代化の始まりの時・・・・祖父は明治7年元前橋藩の家老の子供として生まれている。
江戸時代の名残が色濃く残っている時代で心の底に「武士道精神」が残っていたと思われる。
廃藩置県で前橋藩はなくなるが藩主は後に前橋県知事になっている。
藩主は華族になったが以下の士族は軍人や官僚になるのが多いが幸か不幸か前橋は官軍ではなかったのと島崎藤村の「夜明け前」に出てくる幕末から明治初期の日本の輸出で人気のあった養蚕,製糸が前橋では盛んに行われで製糸業始めた。
大正時代になってからであろう? 南大東島に行っている。
ここは大日本製糖が島全部を支配し製糖業を行っていた。 父が生ませたのは大正7年島の人口が4000人にもなっていた頃である。
参考資料(明治年代表から)
幕末の前橋
安政6年(1859年)の横浜開港は幕末期の前橋に、空前の活況をもたらすことになった。前橋分領では、このころ養蚕・製糸業が発展し、それが開港によって主要輸出品となり前橋に巨利を落とした。
これは幕末期の軍制改革と沿岸警備の負担に悩む藩の財政にも大きく寄与することとなった。このことは、やがて前橋城再築につながってくる。
もともと前橋から川越への移城は利根川の浸食が原因であり、原因さえ除去されれば前橋に居城するのが本来であると代々の藩主は考えていた。
すでに天保年間に郡奉行安井与左衛門によって、利根川の流路を変える大工事が成り、根本原因は取り除かれていた。
あとは再築資金であったが、ここに来ての前橋の好況である。前橋町民が好況を背景にして帰城運動をしたことは間違いないだろう。
加えて参勤交代制が緩和されたことも前橋城再築の動機になり、文久2年(1862年)12月に藩主松平直克は前橋城再築内願書を幕府に提出した。
このときは受理されなかったが、翌文久3年正月、同年7月と再三にわたり内願が出され、同年12月に再築移城が許された。
文久4年(1864年)正月に着工され、3年3ヶ月余りを費やして、慶応3年(1867年)に一応の竣工を見る。しかし半年後には版籍奉還を迎えるのである。
一方、松平氏は家康二男の流れを汲む譜代の名門であり、直克は佐幕であったといわれる。文久3年(1863年)9月に幕府用談所への出仕を命ぜられ、10月には政事総裁となり、元治元年(1864年)には将軍家茂とともに京に上っている。
この頃の直克の考えは、開港場を長崎、箱館の2港として横浜は鎖港とし、攘夷派を押えつつ朝廷に対して幕府の立場を守るというものであった。
しかし水戸斉昭や幕閣は直克の案に反対し、直克は免職とされ、その後は幕府とは距離を置くようになった。
ただ、江戸湾内台場警備や水戸浪士討伐への出兵など幕命には素直にしたがっている。
慶応4年(1868年)将軍慶喜が江戸に戻ると、直克は将軍家の善後処理について建言し、上京して朝廷に対して徳川家の相続について寛大な処置を願っている。
同年閏4月に前橋に帰城、東山道総督に恭順し上野一円の鎮撫を命ぜら、三国峠や会津国境で会津軍と戦火を交えている。
明治元年10月に江戸市中の会津軍残党の取締りを命じられる。一方、戊辰戦争が終結をみた前橋では養蚕や製糸業の近代化が急速に進み、これが明治初頭の前橋を支えることになるが藩はまだ新しい前橋城とともに廃藩置県により消え去った。
***次回に続く***
北区のF様にマーチをご購入いただきました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/e0/e65054d4ba9894ba4593cb8f7ef77e53.jpg)
ご提案させていただいたマーチが気になっていた車種だったということもあり
すぐに購入を決めていただきました。
私もその決断力見習はないと・・・・![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kaeru_en1.gif)
ありがとうございました![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kaeru_thank.gif)
またご来店の時は楽しいお話を楽しみにしています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/e0/e65054d4ba9894ba4593cb8f7ef77e53.jpg)
ご提案させていただいたマーチが気になっていた車種だったということもあり
すぐに購入を決めていただきました。
私もその決断力見習はないと・・・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kaeru_en1.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kaeru_thank.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kaeru_thank.gif)
またご来店の時は楽しいお話を楽しみにしています。
今回またまた三田のO様にお車をご購入いただきました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/c3/218f01508aeff8c46d38626d4f764085.jpg)
いつもありがとうございます。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kaeru_thank.gif)
今回は1BOXのボンゴフレンディーから、かわいいIQに乗り換えていただきました。
別件でご来店いただいた時にたまたまお探しの車が入庫したところで購入していただきました。
やっぱり中古車は出会いですね![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/heart.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/c3/218f01508aeff8c46d38626d4f764085.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kaeru_thank.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kaeru_thank.gif)
今回は1BOXのボンゴフレンディーから、かわいいIQに乗り換えていただきました。
別件でご来店いただいた時にたまたまお探しの車が入庫したところで購入していただきました。
やっぱり中古車は出会いですね
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/heart.gif)