
『希望』という言葉と現実。について、書きます。
俺が生まれ育った時代は、1960年代の高度経済成長の、まっただ中である。
働けば、働いただけ収入があり、TV、冷蔵庫、車などが買えた時代である。
終身雇用・年功序列は、今では、価値が否定され、崩壊してしまったようで
あるが、その時代は、働いた分だけ収入が増加し続け、買いたいと思うもの
も、働けば、買えた時代である。
この時代の『希望』は、
一生懸命、働き続ければ、収入が上がり、買いたい物は、少し無理をすれば、
買えた。
それは、
社会が意図的に作り出した、『希望』であり、「言葉」と「現実」が一致していた。
と考える。
現代社会を見ると、
『希望』という言葉が、ほぼ化石化しているようだ。
『希望』は、与えられるのもでは無く、自分で創り出すものである。という
考えなのか。と思う。
その考えは、
他人に頼らず、自分でやれ。に近いものであろうと考える。
確かに、その考えに一理は、ある。
しかし、
他人に頼らず、生き続ける事が出来るであろうか?
俺の答えは、NOである。
頼り方には、様々な頼り方があると思うが、
共依存は、俺は、進めない。
それより、
相手を見て、話して、相手から自分の不足している部分が自然に見えてきたとき、
自分の不足している部分を、相手に補ってもらう。
または、
補ってもらわず、自分が努力して、その不足している部分を、自分のものにする。
とかが、あると考える。
これは、共依存とは違うものである。
言葉にするとすれば、相互関係での相互依存とでも言うのだろうか。
相互依存の中で、
自己実現を目指していく『希望』というのがあるし、
社会に少しでも、役立ちたいという『希望』というのもある。
また、
家族に何かしてあげたいという『希望』もある。
どの『希望』を選ぶかは、本人次第であるが、
俺は、自己実現を目指していく『希望』から
家族に何かしてあげたいという『希望』
それから発展して、
社会に少しでも、役立ちたいという『希望』に
していって欲しいと思う。
今の俺が、こんな偉そうな事を言える様な人間じゃないけど、
俺自身に言い聞かせる意味でも、
あえて、書かせてもらいました。
なんか、だらだら書いてしまいました。
どうも、すみません。
『今の俺が、現在、正面から向き合っている』こと。で書いた
逃げずに、5つの正面から向き合うのを、日々、忘れないために
書きます。
① 自分自身の中のAcな自分
② 俺の事を最も分かっている妻
③ 子供
④ 師匠(ウィルくん。)
⑤ 職場のこと。← これが最大のトラウマです。