『嘘には三種類ある、
自分を守る嘘、他人を欺く嘘、他人を庇う嘘だ』
これは最近気に入っているTVドラマ「新参者」の主人公加賀恭一郎のセリフだ。
どんな嘘をつくかによってその人を洞察出来るように思う。
たとえば龍馬の嘘を考えてみる。
彼は比較的に嘘が付けない人物だ。加尾を好きであるにも関わらず、自分の将来が見えないために「待っていて欲しい」とは云えない。自分を守るための嘘ではないが、正直に自分の気持ちを伝えられない。家族に脱藩したいときも周囲が先に悟られてしまう。つまりポーカーフェイスができない天然素材と云える。
武市の嘘を考えてみる。龍馬や弥太郎が江戸に向かったにも関わらず、道場主として妻の富や母を守ると自分に対して嘘をつく。このあたりは龍馬とよく似ていると云える。しかし、武市は龍馬より本を読み教養があった。そのために自分を律していたと云える。一匹オオカミの龍馬にも家族があったが部下のような門弟はいない。この環境の違い、つまり道場の門弟たちという組織を守るために、嘘をつかざるを得なくなる。以蔵を暗殺者にすることは、以蔵に必要悪だと彼を庇いながら、自分を守り、門弟や他人を欺く嘘をついていく。土佐勤王党を守り、時代の流れに乗り遅れないように土佐藩を守る彼の大義が、自分の本意(家族と土佐勤王党を守る)にも嘘をつかざるを得なくなる。攘夷という堅固な信念は、薩英戦争や下関戦争で薩摩や長州が攘夷が不可能だと自覚するが、武市の信念は微動だにしない。まさに本当の忠義の人、信念の人、真の侍と云える。その姿は西南の役で自殺した西郷を彷彿させる。部下や門弟たちに器用に嘘をつけ切れなかった悲劇を二人に感じる。
情報量が豊かであることは、決してそれだけではベターとは云えない。教養が足りない人物にとってその情報に影響され続け、信念のない考えや行動に走りがちになるからだ。端的な話が「この株は上がる、この話は儲かる」という情報にすぐに動かされてしまい大金を失う人たちのことだ。何故上がるのか、何故儲かるのか、この話の発信元や人物の真偽を見極められないのは教養が足りないと云って過言ではない。
残念ながら以蔵には教養がない。自分を唯一認めてくれる武市を盲目的に信頼し、彼への恩に対して暗殺という結果で報いようとする。しかし、自分の真意(人を殺したくない)に嘘をつき恐怖観念から必死に逃れようとしながらも、武市の指示で勝の暗殺に向かう。何故、武市が勝を排除しようとしているかも認識しないで暗殺を謀ろうとしたが、その場に龍馬がいた。龍馬がいたことの安心感が以蔵の凍てついた信念のない忠義を緩め、勝得意の地球儀談話が、彼の心に温かい風を吹き込むことになる。以蔵は自分の暗殺に対して、自分を守る嘘、他人を欺く嘘、他人を庇う嘘をついたことになる。
容堂の嘘を考えてみる。
容堂は武市との面談では嘘はついてない。しかし、収二に対しては自分を守る嘘、他人を欺く嘘をついている。組織の管理者はこのパターンの嘘をつくことが多い。役職が上がれば上がるほど、会社を守るため多くの人を利用(=異動)しなくてはならないので嘘の回数は多くなる。武市のような組織(=藩)に忠実な僕は、容堂のような上司が突然現れて酷い目に遭うことがある。反対に部署が変わって水を得た魚のように蘇る人もいる。かつて一時代を築いた西武大国の堤氏は「できる人物は間違った人事でも腐らず成果を上げ、反対に間違った人事を悟らせてくれることがある」と云っていたが、組織作りの難しさや組織の妙を言い当てているような気がする。わかりやすい例として、大リーガーのレッドソックスに移籍した岡島投手だ。彼は投手として大リーガーからしかお呼びがかからなかった。役割分担制度が確立している大リーグでは岡島のワンポントリリーフを買って呼び寄せいた。岡島投手も十分そのことを自覚して松坂投手以上に役割を今期もこなしそうだ。
さて、このように嘘について洞察してきたが、大切なことは自分にウソはつかないと言うことだろうか。人は教養がついてくると一つの信念を構築していく。容堂の土佐を安堵の地にした徳川家康に対する忠義は、その後も微動すらない。これが幕末の幕末の四賢侯と呼ばれる所以だ。山内家の藩主としての役割を全うしたと云っていい。武市もまた自分なりの信念を貫いた忠義の人として名を残した。新撰組の近藤や西郷にも同じ匂いを感じる。しかし、三条実美のような姑息な政治家は自分を守るためだけの嘘を重ねるように見えてしかたがない。まさに政界の風見鶏に見えてくる。人物として歴史に名を残す人たちは、自分の信念に対して嘘はなかったように思う。そして自分の役割をしっかりと把握し、自己の立身栄達を望まなかったことが上げられる。
自分を守る嘘、他人を欺く嘘、他人を庇う嘘だ』
これは最近気に入っているTVドラマ「新参者」の主人公加賀恭一郎のセリフだ。
どんな嘘をつくかによってその人を洞察出来るように思う。
たとえば龍馬の嘘を考えてみる。
彼は比較的に嘘が付けない人物だ。加尾を好きであるにも関わらず、自分の将来が見えないために「待っていて欲しい」とは云えない。自分を守るための嘘ではないが、正直に自分の気持ちを伝えられない。家族に脱藩したいときも周囲が先に悟られてしまう。つまりポーカーフェイスができない天然素材と云える。
武市の嘘を考えてみる。龍馬や弥太郎が江戸に向かったにも関わらず、道場主として妻の富や母を守ると自分に対して嘘をつく。このあたりは龍馬とよく似ていると云える。しかし、武市は龍馬より本を読み教養があった。そのために自分を律していたと云える。一匹オオカミの龍馬にも家族があったが部下のような門弟はいない。この環境の違い、つまり道場の門弟たちという組織を守るために、嘘をつかざるを得なくなる。以蔵を暗殺者にすることは、以蔵に必要悪だと彼を庇いながら、自分を守り、門弟や他人を欺く嘘をついていく。土佐勤王党を守り、時代の流れに乗り遅れないように土佐藩を守る彼の大義が、自分の本意(家族と土佐勤王党を守る)にも嘘をつかざるを得なくなる。攘夷という堅固な信念は、薩英戦争や下関戦争で薩摩や長州が攘夷が不可能だと自覚するが、武市の信念は微動だにしない。まさに本当の忠義の人、信念の人、真の侍と云える。その姿は西南の役で自殺した西郷を彷彿させる。部下や門弟たちに器用に嘘をつけ切れなかった悲劇を二人に感じる。
情報量が豊かであることは、決してそれだけではベターとは云えない。教養が足りない人物にとってその情報に影響され続け、信念のない考えや行動に走りがちになるからだ。端的な話が「この株は上がる、この話は儲かる」という情報にすぐに動かされてしまい大金を失う人たちのことだ。何故上がるのか、何故儲かるのか、この話の発信元や人物の真偽を見極められないのは教養が足りないと云って過言ではない。
残念ながら以蔵には教養がない。自分を唯一認めてくれる武市を盲目的に信頼し、彼への恩に対して暗殺という結果で報いようとする。しかし、自分の真意(人を殺したくない)に嘘をつき恐怖観念から必死に逃れようとしながらも、武市の指示で勝の暗殺に向かう。何故、武市が勝を排除しようとしているかも認識しないで暗殺を謀ろうとしたが、その場に龍馬がいた。龍馬がいたことの安心感が以蔵の凍てついた信念のない忠義を緩め、勝得意の地球儀談話が、彼の心に温かい風を吹き込むことになる。以蔵は自分の暗殺に対して、自分を守る嘘、他人を欺く嘘、他人を庇う嘘をついたことになる。
容堂の嘘を考えてみる。
容堂は武市との面談では嘘はついてない。しかし、収二に対しては自分を守る嘘、他人を欺く嘘をついている。組織の管理者はこのパターンの嘘をつくことが多い。役職が上がれば上がるほど、会社を守るため多くの人を利用(=異動)しなくてはならないので嘘の回数は多くなる。武市のような組織(=藩)に忠実な僕は、容堂のような上司が突然現れて酷い目に遭うことがある。反対に部署が変わって水を得た魚のように蘇る人もいる。かつて一時代を築いた西武大国の堤氏は「できる人物は間違った人事でも腐らず成果を上げ、反対に間違った人事を悟らせてくれることがある」と云っていたが、組織作りの難しさや組織の妙を言い当てているような気がする。わかりやすい例として、大リーガーのレッドソックスに移籍した岡島投手だ。彼は投手として大リーガーからしかお呼びがかからなかった。役割分担制度が確立している大リーグでは岡島のワンポントリリーフを買って呼び寄せいた。岡島投手も十分そのことを自覚して松坂投手以上に役割を今期もこなしそうだ。
さて、このように嘘について洞察してきたが、大切なことは自分にウソはつかないと言うことだろうか。人は教養がついてくると一つの信念を構築していく。容堂の土佐を安堵の地にした徳川家康に対する忠義は、その後も微動すらない。これが幕末の幕末の四賢侯と呼ばれる所以だ。山内家の藩主としての役割を全うしたと云っていい。武市もまた自分なりの信念を貫いた忠義の人として名を残した。新撰組の近藤や西郷にも同じ匂いを感じる。しかし、三条実美のような姑息な政治家は自分を守るためだけの嘘を重ねるように見えてしかたがない。まさに政界の風見鶏に見えてくる。人物として歴史に名を残す人たちは、自分の信念に対して嘘はなかったように思う。そして自分の役割をしっかりと把握し、自己の立身栄達を望まなかったことが上げられる。