「性格は宿命である」と云ったのは、アリストテレス。今まであまりそんなふうに思ったことはなかったが、最近、確かに宿命のような気がしてきた。
子供の頃、私の家は商店街で2店の店を経営していた。父と母がその2つの店をそれぞれを守っていた。私は毎日その2つの店を何度も行き来していた。住み込みの従業員が多いときで男性が3名、女性が2名、通いの従業員が2名総勢で7名の規模だった。
ある日、家で友だちと遊んでいた後のことだった。賄いのおばさんが、「あんな子とは遊んだらあかん」と云った。商店街の裏の狭い路地の古びた長屋のような家に住んでいる友だちだった。私は意味が分からなかった。理由を聞いても全く理解できなかった。いつもあまりに汚れた服装だったことが、おばさんには気に入らなかったのだと自分なりに解釈した。しかし、私はその後も彼とよく遊んだ。何度も彼の家にも行き、野球もよく共にした。母もまたおばさんと同意見だったが、私は人を区別するべきではないと、子供ながらに感じていた。区別や差別という言葉の意味も理解していなかったにも関わらずだ。
金があろうがなかろうが、どんな家に住もうが、どんな生活をしていようが、俺たち子供の世界は平等だ、と本当にそう感じていた。どうしてこのような感覚を身に付けていたのか今でも理解できないが、本当に遊んでいる仲間を区別したことは一度もなかった。親や周囲の教えではなかったと思っている。ではどうして?
こんな子供時代だったから<虐め>は大嫌いだった。小学校の片隅でそんな場面に遭遇すると必ず、泣き虫の弱者を守ってきた。弱者の母親が何度も店番にいる母に息子さんに助けられたとお礼を言いに来たそうだ。母や賄いのおばさん、他の誰かに教わったものでもなさそうだ。強いていえば、これもまた生まれながらに持っていた性格の一つとしか思えない。
小学校の頃、低学年の頃から障害を持った子の面倒をみたので、卒業するまでずっとその子とは同じクラスだった。6年生になったとき、初めて聞かされた話だが、その子が私と一緒のクラスでなくては嫌だと云い続けたと担任の先生に母が云われたそうだ。私の息子にもまったく同じようなことがあった。間違いなく私の遺伝子を継いでいる。
就職して人を採用する側に立っても変わらなかった。だから中国人も韓国人も、他の外国人も日本語が巧みに使えさえすれば、何人も採用してきた。今では多くの外国人を使う企業や店が沢山あるが、30年前にファミリーレストランで外国人がいる店は、決して多くはなかったはずだ。根底にあるのは「人は平等だ」という概念だ。それは今も変わっていない。幼い頃、母や賄いのおばさんが区別(=差別)を私に強要したが、間違っているとその当時から感じていた。今でも不思議でならない。「性格は宿命である」という言葉がよぎってくる。
『私がもっているゲノムは生命の起源から40億年ずっと続いてきたもの。その時間がなければ私はいない。しかも、その記録が私の中に入っている。誰の中にもです。象にも菊にも40億年が入っています。皆、元は同じ。蟻と私たちはそれぞれ特徴を持ちながら別のものではない。つながっているんですよ。そして、多様な生き方をし5,000万種もいる。進化は単なる競争ではなく、生きる力の発揮なのです』と語ったのは生命科学者の中村桂子さん。
私たちのゲノムには、海から生命を授かってきた遺伝子が詰まっている。海中の微生物から魚類が生まれ、突然変異によって両生類が生まれた。そして、新たな突然変異を繰り返し、爬虫類、哺乳類へとして進化を遂げてきた。この生命の大きな流れを、ほ乳類から大きな進化を遂げた人類が、<エゴ>という特有の思考によって蛇行させてきたように思えてならない。人種差別、民族闘争、他人との競争を強いて損得勘定を優先し、しかも多様性を否定するような社会が広がってきてしまった。私のような平等主義者には残念でならない。住み難くてしかたがない。
私は運命論者ではない。運命の支配者でありたいと思っている。しかし、宿命である性格からは逃れられないと思い始めている。ただ、自らの性格を分かるにはかなりの年月を必要とするようだ。私も半世紀以上も生きてきてようやく自覚できるようになった。性格が生き方に大きな影響を与えてきたはずだ。たとえ大病を患ってもそう簡単に生き方を変更ができない友人がいる。頑固者ほどその傾向は大きい。そして、大器ほど変更できないようだ。小器の私にそう思える。
川を渡ろうとしたサソリが、カエルにおぶってもらって川を渡り始めた。
サソリはやっては駄目だと分かっていながら、カエルの腹を毒針で刺してしまった。
悲しい習性だ。サソリはカエルと共に川の中に沈んだ。
映画の題名は忘れたが、ラストシーンでこんな話が語られた。大器である彼の性格とサソリの習性を同列に考えた訳ではないが、何故か、この話を思い出してしまった。アリストテレスの言葉の話を書こうと思っていたが、こんな話に行き着いてしまった。
病院を退院した親友は、夜明け前に起きて、昼過ぎまで会社に通っていると元気な声で電話してきた。「会社にいた方が元気になれる」彼はそう付け加えた。奥さんや家族は心配でならないはずだ。しかし、組織を作ってきた彼には、組織の中にいて初めて生きている高揚感が得られるのかもしれない。私から見れば哀しい習性としか思えない。きっと身近な家族ですら理解できないかもしれない。
大学最後の年、彼は「今が戦争時代ならよかったな」と呟いたことがあった。私は理解できず、「なぜ?」と尋ねた。「就職を考える必要がないから」と学生時代を惜しむ言葉を発した。私は虚をつかれた。私の方は不況が続く第二次石油ショック後の日本で、伸びる産業がないかと自分なりに真剣に模索していた時期だった。そして、二人で学生時代最後の旅行を計画していた時だった。私は当然のように彼の車(シビック)での旅行を考えていた。しかし、彼は「学生時代しかできない旅行をしよう」と云って鉄道でのゆっくりした旅行がいいと云いだした。私には反対する理由がなかった。
あんなに学生時代を惜しんだ彼が重責を担うバリバリの企業人、組織人となった。そんな将来をその頃の彼からはとても想像もできない。私は最後まで現場を愛し、部長職ではあるが専門職として組織人を終えようとしている。しかし、彼は会社全体をみる総合職としての道を歩んできだ。その差が宿命である性格から来るものなのか、今の私には判断がつかないが、お互いに想像もできない人生の歩みだった。ただ二人に共通して云えることは、その道に悔いはなかったという点だ。充実した人生だと想っているからこそ、先日の再会は素晴らしい時間の共有だった。
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彼らは10月9日が結婚記念日。
私たちは10月4日が結婚記念日。
彼らは31年間、私たちは30年間の結婚生活だ。
二人と接していると、きっと一度も離婚など考えたことがないような深い絆を感じた。
私たちも一度も考えたことはない。
献身的な彼の奥さんや私の連れ添いもきっと素晴らしい時間を共有した。
今、このことがとてもうれしい。
ふた組の夫婦が素晴らしい時間だと共感できたからだ。
子供の頃、私の家は商店街で2店の店を経営していた。父と母がその2つの店をそれぞれを守っていた。私は毎日その2つの店を何度も行き来していた。住み込みの従業員が多いときで男性が3名、女性が2名、通いの従業員が2名総勢で7名の規模だった。
ある日、家で友だちと遊んでいた後のことだった。賄いのおばさんが、「あんな子とは遊んだらあかん」と云った。商店街の裏の狭い路地の古びた長屋のような家に住んでいる友だちだった。私は意味が分からなかった。理由を聞いても全く理解できなかった。いつもあまりに汚れた服装だったことが、おばさんには気に入らなかったのだと自分なりに解釈した。しかし、私はその後も彼とよく遊んだ。何度も彼の家にも行き、野球もよく共にした。母もまたおばさんと同意見だったが、私は人を区別するべきではないと、子供ながらに感じていた。区別や差別という言葉の意味も理解していなかったにも関わらずだ。
金があろうがなかろうが、どんな家に住もうが、どんな生活をしていようが、俺たち子供の世界は平等だ、と本当にそう感じていた。どうしてこのような感覚を身に付けていたのか今でも理解できないが、本当に遊んでいる仲間を区別したことは一度もなかった。親や周囲の教えではなかったと思っている。ではどうして?
こんな子供時代だったから<虐め>は大嫌いだった。小学校の片隅でそんな場面に遭遇すると必ず、泣き虫の弱者を守ってきた。弱者の母親が何度も店番にいる母に息子さんに助けられたとお礼を言いに来たそうだ。母や賄いのおばさん、他の誰かに教わったものでもなさそうだ。強いていえば、これもまた生まれながらに持っていた性格の一つとしか思えない。
小学校の頃、低学年の頃から障害を持った子の面倒をみたので、卒業するまでずっとその子とは同じクラスだった。6年生になったとき、初めて聞かされた話だが、その子が私と一緒のクラスでなくては嫌だと云い続けたと担任の先生に母が云われたそうだ。私の息子にもまったく同じようなことがあった。間違いなく私の遺伝子を継いでいる。
就職して人を採用する側に立っても変わらなかった。だから中国人も韓国人も、他の外国人も日本語が巧みに使えさえすれば、何人も採用してきた。今では多くの外国人を使う企業や店が沢山あるが、30年前にファミリーレストランで外国人がいる店は、決して多くはなかったはずだ。根底にあるのは「人は平等だ」という概念だ。それは今も変わっていない。幼い頃、母や賄いのおばさんが区別(=差別)を私に強要したが、間違っているとその当時から感じていた。今でも不思議でならない。「性格は宿命である」という言葉がよぎってくる。
『私がもっているゲノムは生命の起源から40億年ずっと続いてきたもの。その時間がなければ私はいない。しかも、その記録が私の中に入っている。誰の中にもです。象にも菊にも40億年が入っています。皆、元は同じ。蟻と私たちはそれぞれ特徴を持ちながら別のものではない。つながっているんですよ。そして、多様な生き方をし5,000万種もいる。進化は単なる競争ではなく、生きる力の発揮なのです』と語ったのは生命科学者の中村桂子さん。
私たちのゲノムには、海から生命を授かってきた遺伝子が詰まっている。海中の微生物から魚類が生まれ、突然変異によって両生類が生まれた。そして、新たな突然変異を繰り返し、爬虫類、哺乳類へとして進化を遂げてきた。この生命の大きな流れを、ほ乳類から大きな進化を遂げた人類が、<エゴ>という特有の思考によって蛇行させてきたように思えてならない。人種差別、民族闘争、他人との競争を強いて損得勘定を優先し、しかも多様性を否定するような社会が広がってきてしまった。私のような平等主義者には残念でならない。住み難くてしかたがない。
私は運命論者ではない。運命の支配者でありたいと思っている。しかし、宿命である性格からは逃れられないと思い始めている。ただ、自らの性格を分かるにはかなりの年月を必要とするようだ。私も半世紀以上も生きてきてようやく自覚できるようになった。性格が生き方に大きな影響を与えてきたはずだ。たとえ大病を患ってもそう簡単に生き方を変更ができない友人がいる。頑固者ほどその傾向は大きい。そして、大器ほど変更できないようだ。小器の私にそう思える。
川を渡ろうとしたサソリが、カエルにおぶってもらって川を渡り始めた。
サソリはやっては駄目だと分かっていながら、カエルの腹を毒針で刺してしまった。
悲しい習性だ。サソリはカエルと共に川の中に沈んだ。
映画の題名は忘れたが、ラストシーンでこんな話が語られた。大器である彼の性格とサソリの習性を同列に考えた訳ではないが、何故か、この話を思い出してしまった。アリストテレスの言葉の話を書こうと思っていたが、こんな話に行き着いてしまった。
病院を退院した親友は、夜明け前に起きて、昼過ぎまで会社に通っていると元気な声で電話してきた。「会社にいた方が元気になれる」彼はそう付け加えた。奥さんや家族は心配でならないはずだ。しかし、組織を作ってきた彼には、組織の中にいて初めて生きている高揚感が得られるのかもしれない。私から見れば哀しい習性としか思えない。きっと身近な家族ですら理解できないかもしれない。
大学最後の年、彼は「今が戦争時代ならよかったな」と呟いたことがあった。私は理解できず、「なぜ?」と尋ねた。「就職を考える必要がないから」と学生時代を惜しむ言葉を発した。私は虚をつかれた。私の方は不況が続く第二次石油ショック後の日本で、伸びる産業がないかと自分なりに真剣に模索していた時期だった。そして、二人で学生時代最後の旅行を計画していた時だった。私は当然のように彼の車(シビック)での旅行を考えていた。しかし、彼は「学生時代しかできない旅行をしよう」と云って鉄道でのゆっくりした旅行がいいと云いだした。私には反対する理由がなかった。
あんなに学生時代を惜しんだ彼が重責を担うバリバリの企業人、組織人となった。そんな将来をその頃の彼からはとても想像もできない。私は最後まで現場を愛し、部長職ではあるが専門職として組織人を終えようとしている。しかし、彼は会社全体をみる総合職としての道を歩んできだ。その差が宿命である性格から来るものなのか、今の私には判断がつかないが、お互いに想像もできない人生の歩みだった。ただ二人に共通して云えることは、その道に悔いはなかったという点だ。充実した人生だと想っているからこそ、先日の再会は素晴らしい時間の共有だった。
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彼らは10月9日が結婚記念日。
私たちは10月4日が結婚記念日。
彼らは31年間、私たちは30年間の結婚生活だ。
二人と接していると、きっと一度も離婚など考えたことがないような深い絆を感じた。
私たちも一度も考えたことはない。
献身的な彼の奥さんや私の連れ添いもきっと素晴らしい時間を共有した。
今、このことがとてもうれしい。
ふた組の夫婦が素晴らしい時間だと共感できたからだ。