今日の休みはゴルフ住之江で久しぶりのゴルフ練習。宮里藍ちゃんのようにどのクラブもゆっくり振る練習に集中しようとするが、だんだんと力が入ってくる。これが即ミスショットにつながる。強く振ってもゆっくり振ってもヘッドスピードは42~43、飛距離は230~240Yだ。ところが同じように振っても250Yの時もある。つまりミート率こそが重要ということだ。ヘッドを来た道に戻してあげる、そのためのスイングはやはりゆっくりしかない。
練習後は<鎌倉パスタ>から誕生日カードが届いていたのでお誘いに乗りました。連れ添いの誕生日は8/3、この日はラブアップルコンサートの日だったので、今日までお祝いディナーが延びてしまった。
好きな作家の五木寛之氏は妻のことを配偶者と書いていましたが、私はいつも連れ添いと書いている。人生が旅に似通っていると思っているからだ。どのような連れ添いを見つけ、出会った知人たちといかなる旅をするか、これが人生だと私は思っている。昨夜、高倉健主演の「あなたへ」というロードムービーを見たが、旅とさすらいの違いは目的地があるか、ないかだというセリフがあった。
では「人生に目的地があるか」この質問に人はなんと答えるだろう。
私は長い間この答えを考えていた。そして60歳になって、『論語』の中の孔子の言葉が答えに導いてくれた。
「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり 」
意味はご存じのように、 朝に人がどう生きるべきかを悟ることができれば、夕方に死んでも後悔はないということ。
60歳を過ぎてようやくたどりついた答えは、大切なのは日頃の生き方であって、目的地ではないということだ。かつて人生の目的は幸せになることだと思っていた時期がある。今ではそんな不安定で不確かな状態を目的にすることなど愚の骨頂だと知った。この20年間私はやるべきことの延長線にやりたいことが見つかると信じてやり通してきた。今やこの二つに大きな差がない状態にまでレベルが上がってきたと感じている。
「色心不ニ」この言葉は、人の心は元々一つだというお釈迦様の教えだ。心の中には感情と理性が常に押し合いへし合いしているが、これを一つにしていく生き方こそ、私が60歳で悟った生き方だ。こんな生き方を誰かから教わったわけではない。ストレスを感じない生き方を模索していたに過ぎない。「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり 」も「色心不ニ」も昨日今日知った言葉でもない。これらが自然に解け合い時間をかけて熟成し、「人生に目的地など必要ない。大切なのは道を知るかどうかだ」へとたどり着いたのだ。常に上達するための近道などない。悟りもまた同じ。
昨年11月息子が奈良に転勤したので私はすぐに息子の部屋を我が書斎兼寝室にした。結婚以来初めて書斎を持った。息子への牽制の意味もある。男がいったん家を出た限り再び帰ろうなどとは思うなというアピールでもある。親の最大の役目は子供を自立させることだ。その意味ではようやく完了したかに思えるが、この先のことは誰にも判らない。しかし、自立の二文字の意味は教えられたと信じている。朝に道を聞いたので、これからは思いのままに、そしてシンプルに生きていくだけだ。