6/29-30『朝生』の片山さつきと金美齢は対照的な手法で発言した。片山は堂々たる論陣を張って、終始一貫「我々はこれまでも充分対応してきたし、これからも準備万端、研究対策に抜かりはない。我々を信頼して欲しい」という論調だった。流石総理の座を目指そうという大蔵省主計官出身の元エリート官僚だが、そんなにご立派な歴代自民党政府と霞ヶ関官僚たちが、何故今回のような大失態を招聘してしまったのか、その説明は皆無だった。自らの腐敗と驕りと怠惰について一言も言及しないで今回の事態を説明することなど端から出来ない相談なのである。一方従来から我が『台湾ロビー』の向こう側にいて相呼応している論客だった金女史は、年相応に古臭い手法で自民を擁護し続けた。論争しようと言うのだから「結論先に有りき」はいいとして、そのロジックがことごとく「Aだが、Bだ」に統一されていて、その場合Aは単なる修辞、枕詞となって、Bを飾り立てるための装飾語の役割しか果たしていないのである。「小沢さんの『日本改造論』は良かったから私も期待したが、今の小沢さんは駄目だ」と女史が言うとき、前段は「一旦持ち上げておいて後で落とす」ためだけに援用されている全く不要な部分なのである。これは、こういった大学弁論部並の低レベルの詐術が通用する場所でしか普段発言していない証拠であって、殆ど醜態と言っていい。さて、吉本流に言えば言葉は『指示表出』である限りに於いては手段であり道具であり、つまりは武器たり得るものであるが、今日はもっと端的に『敵』をこの地上から抹殺するための道具についての小論である。 . . . 本文を読む