西野了ブログ テキトーでいいんじゃない?

日々浮かんでくる言葉をエッセイにして・・・・・・。小説は「小説を読もう 西野了」で掲載中です。

時間って何?

2025-03-03 10:33:12 | Weblog
 最近、自分の時間がブチブチと千切れるような感じがする。それは僕自身の何かが無くなってしまうような不快な感覚なのだ。
 例えば読書中にスマートフォンのヴァイブレーションが「ブッブッ」と振動する時とか、テレビを観ている際に不必要な笑い声とかを聞かされる時とかに、僕の中のある種の連続性が途切れしまう。
 六十年以上生きていると時間が積み重なってきたと云う実感はない。むしろ自分の中に様々な出来事が蓄積したということが生きてきたと云うことだ。それらの出来事の集積が時間的に表すと六十年以上になる。
 時間と云うものは人間が生きていくために便利だから、とりあえず名付けた記号のようなもので、実体は無いのではないかとも思う。
 いきなり話は変わるけど、例えば能の主役―シテが橋掛かりから静々と歩いてくる。本舞台まで十分くらいかかる。それからワーグナーの無茶苦茶長いオペラ「ニーベルングの指環」を観続けると同じようなメロディーがとても長く続くように感じてしまうことがある。展開が滞ることがあるので、現代人は能やオペラに適さないのではないかと僕なんかは思ってしまう。
しかし僕はその単調そうな舞台を観てしまう。そのような単調そうな時間が楽しいかと言えばそうでもない。では退屈なのかと言えばそういうわけでもない。その単調そうな場面がホントは深い意味があるかもしれないけど、そういうことはあまり分からない。
 では僕はそう言う深い意味があるかもしれない時間的に長い場面を真剣に鑑賞しているのか。否、僕はそんな場面では基本的にボーッとしている。その間、僕の脳は殆ど働いていないのではないかと思ったりする。脳が活動休止していることはなかなか出来ないことらしい。(脳が活動しないと生き物は死んでしまう?)そして何故ボーッとしているかと言えば僕は集中力が持続しないからである。緊張感を持ちにくい性格なのだ。
 僕のような人間にとって意味深いものであると思われる作品を前に、このように呆然と接することは時間の無駄なのであろうか? うむむっ・・・。
 また話は変わるけど僕は気に入った小説をやたら読み返す癖がある。村上春樹さんの「ダンス・ダンス・ダンス」と云う中編小説を百回以上読み返している。いくら僕の頭がぼんやりしていても、百回も読み返さないと内容を理解できない小説ではないと思う。僕が四〇代頃は一定の周期で、この小説を読み返していた。こうなると一種の中毒症状である。ぼんやりしているのに丁寧に読むので当然時間がかかる。はたしてこの作品を読み返して大切な何か学んだとか、猛烈な感動とかがあったかと言えば、これまたよく分からない。しいて言えば「ダンス・ダンス・ダンス」を読むと部屋の掃除をしたくなったり、ビールを飲みたくなるくらいである。こういう時間の使い方は今では無駄な使い方に分類されそう。
 そして今はマルセル・プルーストの「失われた時を求めて」という世界で一番長いと言われる小説を読んでいる。一九世紀末頃のフランスの貴族の話だ。確かに長いし描写はドストエフスキーも真っ青というくらいくどい。貴族のスノビズムを風刺している作品らしい。これまで全一三巻のうち五巻を読んでいるが大した事件とかは起こっていない。貴族の家柄とかサロンのメンバーとか芝居の評価とかの描写が多くて、日本にいる庶民の僕にとってはどうでもいい話ばかりである。しかし何故か読んでしまうのだ。いったい何が面白いのか分からないが、時間というものだけは経ってしまう。
 おそらく僕は「時間」の観念が薄いのだろう? だから客観的に見れば長い時間をかけて、面白いかどうか分からないことに関わっても平気みたいである。そういう人間は今の世の中の猛烈なスピ―ドに明らかについていけない。他の人は僕をいわゆる時間と云うモノの無駄遣いをしている奴と言うだろう。だけど偏屈で傲慢な僕はそれでいいじゃないかとうそぶいている。そして、そういう人間が少しは存在しないと世界は住みにくくなってしまうと確信しているのだ。

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