ペタンク爺さん

ペタンクで遊ぼうよ!で20年

援軍来たる

2013年04月15日 15時37分44秒 | ペタンク爺さんの一日
籠城して戦っていた、退路は絶たれていた中で物凄い助っ人の活躍が始まったが、敵を殲滅すると同時に近くにいる味方の兵士まで犠牲になってしまい、本丸は大将一人の様な状態で丸裸の感じだった、其処へ強力な味方から援軍が駆けつけてくれた、カンフルの点滴が始まる、食べれなくなっていたので79歳の肉体には余力は残っていなつた。
その他に、食前30分前に飲む漢方薬が食欲を誘ってくれ、ほんの少だが食事が取れたのと同時に元気が沸いて來た、食べることが、これほど大事なことだったと改めて思い知らされた。
主治医のS先生は、抗がん剤もインターバルを少くおくとも云ってくれた、眠間をかけるしかないと思った。

昨年の今項は、西岡の奥にあるゴルフ場横の沢づたいに降りて行きアイヌネギ採りに行っていた、春一番の山菜料理でアイヌネギの王子とじは絶品だ、家族全員が食べないと匂いで被害を受ける。
年に一度は食べたい山菜です、沢山採れた時はジンギスカン鍋が最高だ。
五月に入りたらの芽が採れ出す、これは天婦羅が良い、作年も出荷している。
5月から6月は竹の子採りが山菜の本命となる、今年は早くがら山ダニの脅威が報道されていた、毎年家の中まで持ち帰り家族に非難を浴びていた、白っぽい服を着て山をおりる時は着ているものを脱いでほろって帰っているのだが、完全には無理で帰宅してから発見される事が度々だった、だが今年は活躍出來ないと思っている。
寂しい春山となるか。
元気が出る項は夏になつていると想像している、9月10月のきの子シーズンには少しは元気を取戻していると希望を膨らませている。

味方も時には苦しめる

2013年04月14日 16時56分58秒 | ペタンク爺さんの一日
手術は成功し翌日から一日一日目に見える様に回復していた、胃袋は25%程に小さくなってしまっているので一度には食べ物は入らなくなってしまった、今迄食べていた量の半分も食れない、胃袋に落ちついて少し下の方に進んでもらわないと次の食べ物の入る場所がない、30分掛けて食べて下さいと指導を受けていた、そんな食事習慣も少し慣れ始め元気が出始めた4日前から、手術で取り残った癌細胞を攻撃するため抗がん剤治療が始まっていた、日に日に体力が衰えて行くのが分かるようになり、今朝の朝食後にのんだ抗がん剤でとうとう食欲はなくなる、昼食は30%ほど無理して食べたが午後三時間の間食はひとっも手をっけず終った。
なんだか食事の時間が来るのが恐ろしくなっている。
体内に強力な味方が入って活躍しているのに、本体の肉体は悲鳴を上げているようだ。
未知の世界に入り込んでいるので、この後の予想はたたない、経過を見守るしかない。

ベットに横になっている時間がながくなっている。
それでも競馬の皐月賞を見ていて、T氏とK氏取れたかなと想像を逞しくしている。
そろそろ娑婆が恋しくなる。

音楽は素晴らしい

2013年04月13日 16時07分20秒 | ペタンク爺さんの一日
この世に音楽が誕生して変化し進化して来ていると思っている、この度の入院生活でこんなにも心を癒される事がかってなかった。
音楽と始めて出合ったのは小学生だった、合唱団に選ばれ少し厳しい指導を受けた事がある、今となっては何を歌っていたのか全く覚えていない、歌うことが好きだったと思っている。
間もなくハーモニカを手に入れポケットには何時も忍ばせていた、だれに教わる訳でもなく我流で習得していた。
ハーモニカはそれ似上発展する事はなかった、成人になるに従いハーモニカは生活での中から消えていた、音楽と云えば演歌時代からカラオケ時代に、私にはどうも馴染む事はなかった、ポップスが出るようになると好きな歌い手も出来て来た。
私に欠けているのはリズム感で、一番苦労したのは社行ダンスに足を踏み入れ始めて判った私の欠陥が明らかになったが、固まってしまったっている音楽センスは簡単には直せない、それには沢山の音楽を聞くしかない、音楽と言えば直ぐラジオに結びつくがラジオのFMでは音質が悪い、今回の入院でウォークマンをと考へたが、PCも兼ねるとなるとタブレツトで用が足りると決めてしまつた。
操作は説明文も読まず、いじくり回している内になんとか使うことが出来ているが、完全にマスターするには暫くはかかりそうだ。
テレビや動画は目が疲れる、音楽も入つているがFMラジオは音楽が中心で一日中スイッチを入れておいてもバッテリーの消費が少なく、かけっぱなし寝てしまう事もある。

兎に角音楽は素晴らしい、心を癒される、レーシバーで聞いているので他人には迷惑はかけない、一人の世界での友達だ。

治療が始まって三日目、副作用として体力の衰えが現れる食欲が減退してきて食事が少し苦痛に感じているが頑張って半分は食べる努力を続けている、体力を測る為二階から四階上の屋上にある温室迄歩いて 上がっているが一階ごとひと休みしながらでないと到達出来ない、今日は今年の春が待っていてくれた。

誰かが蕗のとうを置いていた、優しい心使いに感謝。

二十数年振りの床屋さん

2013年04月12日 15時06分28秒 | ペタンク爺さんの一日
思いがけなく二十数年ぶりに専門の散髪屋さんにかかる、本当は結構お洒落で3~40歳項はパンパーマをかけていた、その後晋通パーマネントをやっていたが外に現役を引退してからは床屋に行くのを止めてしまった、投資する目的が出来ー点集中主義が復活したからで抑えられる支出はとことん切りつめると散髪代まで削ってしまった、今日入院中に先日からお願いしていた床屋さんさんが来て散髪をしてくれた、床屋さんの作業手順を久しぶりに拝見させてもらった。
子育時代はスキーが全てだった、今でも心に引っ掛かるととがあるが二人の子供達は人並に高校の修学旅行に行かせなかった事で、スキーで遠征に行くのでと我慢させた事だ。
とうじは、スキーにはお金をかけてもその他は耐乏生活をしていた。
兎に角二人のアルペン競技スキー選手を抱えて、大蔵省の女房には大変な苦労をさせた。

60歳を期に、ぺタンクにのめり込むのだが今度は女房とー諸だったので楽しい時間を共に出来少しは女房孝行したと思っている、この項から若い時の経験を生かし春は山菜採り秋はキノコ採りをして中央市場に出荷していた。
総額にして大した金額ではないが採るのが楽しい事、趣味と実益が伴い山歩きする事で足腰は丈夫になるしこの上ない。
夫婦二人のペタンクの遠征費用はこれで賄っていた。

矢張ペタンクの一点集中主義を貫き通していた。

避けて通れぬ道

2013年04月11日 15時36分24秒 | ペタンク爺さんの一日
私がまだ高校生の項、母親に子宮癌が見っかり当時輪西に住んでいたが札幌の北大病院に
出向いていた、40歳後半だった、それ迄に死産二人を含め12回のお産をしていたと聞いている。
結婚してからお腹の中は休む暇もなかったはずだ、それだけ酷使し続けた体に異変が起きても不思議はない、此からと思っていた頃に病魔に取りつかれてしまった、運命なのか、それから7年北大に入院退院を繰返し、当時としては医学の先端の抗がん治療としてコバルトで患部を照射していた、大変な副作用で苦しんでいた事を鮮明に覚えている、最後は私は結婚し長男もいた項で病院から退院し我家に戻って來た時に母を背中に背負って二階の寝室迄歩いた時は余りの軽さに驚きを感じえなかつた、その後は毎日の樣に地元の医者がモルヒネ注射をうちに來てくれていた、苦しみながら54歳で亡くなった。
この歳ではまだまだ生きていたかった事だろうと思つている。
亡妻の父親も長女を嫁がすと、胃癌で呆気なく亡くなって行った。
最近では亡妻の兄が肺癌ですぐその後を弟も肺癌にかかり抗がん剤治療をやっていたが副作用で肺炎を起こしあっという間の出来事だった、亡妻も肺癌で発見された時はもう手遅れ状態、妻は決断し抗がん治療は断った大変苦しんだ末に決めた事と思つている。
自宅のベランダから外が見える居間にベツトを置き寝起き始めた、三月の妻の誕生日には二人だけで金婚式をやった、お鮨をとって二人で食べた思い出がある、この後8月には亡くなるが苦しまないで行ってしまった、東札幌病院には大変なサポートを受けお世話になった、ぞんな事もあり私もこの病院を心のよりどころとしている。

今朝から抗がん剤治療が始まった、今の所副作用としては少しふらつくくらいで大きな変化は現われない、何日か続いて行くとどう変化するのか個人差があるので神のみぞ知る。




イタンキ浜と少年

2013年04月10日 15時49分24秒 | ペタンク爺さんの一日
鶴ヶ崎小学校の前の坂を上りつめると大平洋の海原が見えて来る、その先には家はなかった、ただいっの項かその項では珍しいゴルフ場がありハウスがあつた時代があつた、曰本製鈑の地元でそんな文化があっても不思議ではないが戦争が激化するとともに閉鎖されてしまったとと思う。
そのゴルフ場の中を通つて海の方に降って行くとその辺を境に切り立った崖が続くリアス式海岸になる、浜迄そのまま出てしまうと途中から砂浜になる、歩くとギュギュと音を出す泣き砂で少年時代もよく鳴らしながら歩いていたことを思い出す、海に向かって左前方の砂浜の先には鯨が横たわるような形をした岩山が見える、そこ迄行くには半道もあつたように覚えている、何軒か漁師の家が崖下にへばりつくようにあつた事を覚えている。
そこはもう隣町の東室蘭だつた、浜辺に沿って珍しい競馬場があり隣の家が馬車おいだったのでー諸に競技会に出るのに付いて歩いていた、ただ入賞した記憶は残っていない。
鯨半島と反対側の海岸は、右手に切立った崖が迫ってくる先へ進むごと陸地が狭まりその内に大きな岩場から石原だらけの狭い道が続くが、そのうちその道も途絶えてしまう、目の前の大きな岩山ローソク岩の前に立つ、ぞが行き止リになつていた。
ぞこ迄行く途中でただ一箇所急な崖を降りる所があって少年の項の冒険心をかきたてる場所でもあった。
そんな遊場でもあったイタンキ浜は、夏になっても海水浴場にはならなかった、引き波が強く危険砂浜海岸に決められていたようで、泳いでいる人を見掛けなかった。
中学生時代、若い先生と4~5人の子供達とイタンキ浜で泳いだ事がある、ー諸に沖に出てさて海岸へ引き返すと思ったがいくら泳いでも岸に近ずかず、一瞬溺れると思った事も、確かその時に近くに岩があり友人がその上で立っているのを見て泳ぎ着き、事なきことがあったことが記憶焼き付いている。
今は砂浜にはテトラポットが並んでいて、サーフィンのメッカになっている。


今年も種蒔に間に合いそう

2013年04月09日 21時10分57秒 | ペタンク爺さんの一日
いつもの年なら早い時など三月には種まきは始まっている、無論仮設程度の温室ではなくストーブのある居間が会場となっていた、必然的に人間よりこの時だけは優遇されていて下にもおかぬ待遇を受ける、ただ気温が上昇しゴールデンウィーク近くになると、ポツトで育った苗をプランタンや鉢に、もうその項なら花壇に直接定置植えをしていた、今年に限り天候不順で雪どけが遅かった、妹の話の様子ていはベランダ外の雪捨て場にしてあった公園も二日ほど前の大雨で山と積まれていた雪山も見る間に小さくなり融けた雪どけ水で池が出来ていたとの話だつた。
お蔭で雪どけは一気に進み、公園は早春季状態との事、五月のゴールデンウィークが本格的の出番が廻って來る、どうやらその出番に間に合いそうに退院の日程が決まった、アクシデントがない限り来週の20曰項迄には退院出来そう。
ただ明後日から抗がん剤治療が始まる、無論退院してからも続く事になるので闘病生活は続くことになるが環境は我家より良い所はない、きっと回復が早いと思っている。

後になって思い出すことは一年ほど前髪の毛が大量に抜け出していた、お風呂で頭を洗う度に坊主になるのかなと思うほど抜け続けた、同時に体重が減リ始めていた、その項から人に合うと痩せたねとよく云われていた、ただ自分では何の自覚症状もなかったので病気に繋がるなどと思ってもいなかった、胃もたれの症状で東札幌病院外来で来てチェックが入った事で見っけ出された、まだ幸運の方と思つている、進行制癌でCとの事で術後の治療も必要になるので暫くは闘病生活は続く。

今日昼から全身湯つぼに浸かる、溶けてしまいそうに感じる。
いい湯だないい湯だな、ここは西病棟二階の湯・・・ドンドン

園芸・菊作り二年目

2013年04月08日 14時25分28秒 | ペタンク爺さんの一日
作年始めて菊の苗を仕入れた、仕入先はサカタの種屋さんで数回利用させてもらっていて、信頼がおけるお店と確認出来ていた。
10種類ほど全部名前が付いていた、何の予備知識もなく始まり途中から勉強始めると言った具合で、何とも頼りない菊作り初年度だった、大輪を三本立に作つて見てよく菊展で拝見していたので展覧合に出すには並み大抵なものでlは出来ないとおぼろげながら判つて来ていた、それでも小菊を懸崖作りに挑戦してみたが、無論我流で適当に作つて行く内にネツト動画での専門家の作り方を見せてもらうと、私の幼稚さに我ながら呆れてしまつていた、違ったからと後戻りは出来ない、一年がかりの大勝負で失敗すると一年待たなければならない壮大な事業なのだと、身をもつて知らされた。
それでも元木から取って挿し木し小鉢に殖えた物を雪の降る前にベランダ下の花壇のすみに並べ莚セ被せてあった、毎日通って來てくれてる妹の話では雪が消え筵が顔を見せた報告をして來た、早速莚を剥ぐって鉢を出すようにお願いする。
定地植した菊の跡から新芽も出ているらしい、今年はその新芽から挿し木で取り大輪は株増と小菊でドーム菊作りに挑戦しようと心に決めている。

そう、種屋さんの注文に新腫のダリアのタネイモが届いたと言っていた、此れが最後の注文の品と思うが全部の商品が送り終ってから精求書が送られてくる、すぐ近くのコンビニで振り込めば終わりになる、買いやすいシステムとつくづく思う。

大先輩の竹内氏がお見舞に顔を出す、直接血の繋がりはないがすぐ近くに住む親戚で亡妻の従兄にあたる人生の後半に入り、ペタンク仲間に入つてもらい本州遠征にも行っているし、私が60歳の時にねんりんぴっく札幌代表となった時のメンバーでもある、楽しい一時代共に過したが、最近はペタンクの練習には出て来なくなっていた、私より丁度10歳上の数え90歳になっている、まだ好きな競馬目がない、それに書道だけは現役だ。
私が一番目標にしている頼もしい先輩なのだ。




河村通夫のらくらく農園三年生

2013年04月07日 20時48分36秒 | ペタンク爺さんの一日
本来ならば、今項はベランダの仮設温室の中はポット植した箱が所狭しと並んでいる項だ、種植の土だけは新しい物を使っているがポットからプランタンに稙替る士は、作年の秋遅くに全部のプランタンの土を天日干して腐葉土と堆肥を混ぜて花壇の隅に並べてある、今年は新しい土を足し更に堆肥と肥料を混ぜ再生の土として使うつもりでいる、らくらく園芸では土作りが最大で、此れが完成されていないと作物や綺麗な花は育たないとしている、何年もかけて勉強してきた河村氏の拮論で、私も彼の生きざまと園芸手法に共感すると共に羨ましくも思う所だ、もう少し早くから知っていたら少し私の人生も変わっていたかもと思う事もある。
園芸作業は少し遅れてはいるが、生憎かどうか判らないが今年の雪どけが遅い、サカタの種屋さんに注文していた花の種が最後の宿根の赤いガーベラの苗も届いている、退院してからでも間に合うとたかをくくっている所がある。
ただ体力が少し衰えているので、土いじりの重労働は過酷かなとも思っているが、好きなことをやるので乗りきれると思っている、今年は河村氏にならってプランタンを使った菜園を実践しようと考へている、集合住宅の決まりで花壇は花作りだけと制限されているが、ベランダのプランタン農園や、多少の屋外でのプランタン農園では許されているので今年は、作年同様にトマト、エンドウ、小松菜、の外にナスビ、ピーマン、ししとう、南蛮、大葉、人参、それに、小ねぎと欲張って要るが何処まで実現するか終って観なければ判らない、一年係りの一大事業になる。

本曰二週間ぶりくらいのお風呂に入る、頭を洗い腰湯だけにする、久しぶりに黒缶夏山スキー合宿で山から降りて来てお風呂に入った時の事を思い出した。

昼食
夕食

故郷のお思い出・入学式

2013年04月06日 15時27分17秒 | ペタンク爺さんの一日
明日明後日の月曜日殆んどの小学校の入学式になっていると思う、私は昭和16年の丁度今項輪西町の少し高台ある鶴ケ崎尋常小学校入学している親も余程嬉しかったのか写真館で写した貴重モノクロの写真が残っている、学校内の様子は余り記憶に残っていないが学校帰りにセラー服を着た上級生の女の子が手をつないて"お送ってくれた映像が何時までも消えなかつた、此れが私の初恋だつた、その後この方面は影を潜め再び出て來るのは高校二年生だつた、一年生半ばで同じ町の少し離れた高台の大沢国民小学校に移って行く、大戦が始まり学校の名前から校長先生が軍服を着ていて学校の敷地には天皇陛下の写真を祀る御真影があった、この年真珠湾で大戦果をあげ町中で提灯行列をした事を鮮明に記憶として残っている。
自分ではさほどとは思わなかったが、幼稚園では弱ぃ物いじめして女の先生に園から外に放り投げられたり、柱に縛られたりしていました。
小学校一年の畤女の先生でしたが教室の窓から投げられた事が記憶に残っているが何が原因だつたのか今だに分からず、不思議な記憶として残っている、三年生ころ矢張女の先生に体ごと体罰をくらい、その時は強烈な白粉の匂いが記憶として残り、これも何で怒られたか不明だ、新生中学では小さな小学校がら集まリクラスは10クラス以上になっていた、するとたちどころに私は目をつけられ中学校は喧嘩三昧だつた、決して喧嘩は強いわではなく結構負けてもいるが、喧嘩の後は良き友達となって行つた。
そんな中学生だつたので勉強は苦手で学校を帰ってから教科書を開く事はなかつた、高校入試も三日間やつた事を覚えている、室蘭商業高校で倍率が低かつたので入学してしまう。

故郷輪西の思い出

2013年04月05日 17時03分46秒 | ペタンク爺さんの一日
室蘭市の輪西町に住み出したのは私が四歳の項と思う、親父の本業は大工だつたしかし輪西に住むと同時に商人に変ってる私の記憶もこの辺から確かなものになっている、この二年後に曰本が国連を脱退し米英に宣戦布告をしている。
そんな時代を背に少年期を過して行く、この町で我家は商人に生れかわり遠藤百貨店を開業している、色々な物を売っている中で冬の子供の遊び道具のスキーを仕入に、この町から三つも先の室蘭迄親父のリヤカーを押してスキーを取に行つた記憶は忘れられない記憶として焼き付いている、余中三ケ所ほど峠がありこんなガキでもテコにしなければなかったのか、もうこの項から商人道を親父は叩き込んでいたようにも思っている。
兄姉がいたが両親は二人の我子を親に預けて北海道へ渡って來ている、長男が小学校卒業と同時に親から引取り大家族になっている、この項から我が家は釣具店卸業に長男は旧制中学室蘭商業に入学していた、商人道修行か小学生くらいから一人で宿りがけで重いイカ針を仕入に寿都迄行かされていた、商品の届けで曰高迄汽車旅をしていた、今考へても親父は商人道を教え込ませる実践中だったことが判って来る。
兄貴は私より7歳上でー諸に遊べる様な存在ではなかった、それに子供項虫に刺されて片目を失い独眼竜でありながら中学では剣道部に所属していた、毎日黒マントを翻し竹刀を肩ひと駅先の学校迄歩いて 通っていた、格好良く見えたものだった。
そんな兄貴と二人だけで二人の生れ故郷新潟の五ヶ浜に里帰りしたことがあり、この時の記憶が生れ故郷の全てとなる、13歳と6歳の子供だけの旅で昔は函館、青森間は船旅の時代で心配した親は帰は祖父が送くて來ている、その時の家族写真が残っている。

今日の夕食の献立は

2013年04月04日 22時40分13秒 | ペタンク爺さんの一日
お粥
スープ
ふろふき大根
鶏のつけ燒
人参ペースト
柚子味噌
ゼリー
ジユース

以上が献立で普通なら大した、料理とか量ではないのだが何せ二週間もまともな食事はしていない、先ずは量が物凄く多く感じられ戸惑う食べものを見ても食欲が湧かない、数日前からおも湯から始まり三分粥になていた、味付け味噌を混ぜ込み食べていたオカズも90パーセントは水分で歯が無くても食られるものだつた。
それに引かえ今夜は違っていた久しぶりに見る食卓に感じられた、ともあれ食べる事が娑婆に近づく現在の状況とお膳に手を付けた、主食のお粥は手をつけずふろふき大根をロにする今ひとつ、今度は鶏のつけ燒を食べると、美味しかった、今日はこれ一点でお粥に味噌を入れ8分ほど平らげる、美味しい食事となった。
普段なら脂身のある肉でないと美味しいとは思わないのに、肉に飢えていたのが良く判つた第一歯が無ければ食べられない代物に胃袋も吃驚していることだろう。
明日で手術後10日になる、此れからは食べる事が復活に繋がって行く。






三丁目のタ曰の時代(2)

2013年04月03日 20時37分50秒 | ペタンク爺さんの一日
札幌から鉄道で向かって行くと、東室蘭から別れて行止の室蘭の街の中の海岸町が終着駅となっている、私の町はそこ迄行かない東室蘭を出るとすぐ大きな工場郡が現れ其れを避ける樣に鉄路も道路も左右に分れる、無論左に沿って進んで行くともう右手は大工場郡の長い何本もある高い煙突から真黒い煙りがたなびいているのが見える、左を見るとバツクが段々高くなり、もう低い山並が続く町並が出現する、町に入る手前に戦後作られた野球場があり、ここからが我が町の室蘭市輪西町なのだ、野球場のある辺りが13條で12/11/10/9/8/7/6/5/4/3/2/1條で崖山にぶっる所で町は終る、工場郡と町の境に無論高い金鋼の塀がある、町は工場郡を背に目の前を国道があり道をはさんで見える高い建物はなく平屋か二階建が続いている鉄道の駅は平屋の小さい駅で三條通二條通りの中間で毎朝何百人かもの工員さん達が国道を跨いで三條通り人って来る、少し遠回りになるがそのまま進むと私の家のある仲通りとなってぃてー車線ほどの直路が現われる無論信号機など無い、そを左折して進んで行くと四條通り、その右角が我家でそれを通過て行くと九條通りぶっかり左折すると、曰本製鉄工場郡の正門にぶつかる。
人が通るから商店が立並んだのか商店街があったから人が通る様になったのか定かではないが、この町の人逹は日鉄のお陰で性活出来ていた、後一丁も山側に道路があったがその先は日鉄さんの平屋の社員社宅地区でその先から急な坂になりその上に僅かな一般住宅があった。
そんな町にも映画館が二軒、病院も三軒、呉服屋、旅館、本屋、新聞屋、靴屋、豆腐屋、
楽器屋 、米屋、野菜屋、魚屋、駄菓子屋、洋菓子屋、時計屋、金物屋、変った所では馬車屋、蹄鉄屋、竹屋、征屋、鉄板屋、風呂屋、士建屋、鳶職、雑貨屋、洒屋、居酒屋、それにヤクザもいた町だ。
その項は、私が衣料品店の越後屋を出していた、店の直ぐ前がお風呂屋で寅さんの様な人が口上をのべ物を売ってぃたり、賑やかな町の中に溶け込んでいた。

病院の温室の花逹

夕日の三丁目時代だつた

2013年04月02日 18時01分40秒 | ペタンク爺さんの一日
結婚した年は1959で翌年にテレビが出現している、間もなくして大家族の真只中に長男が生れた、我家は当時でも珍しく囲炉が切ってあり茶の間であり食事所でもあった、その囲炉の前に家長である親父が占領していた。
私の外に娘(妹)達が三人もいた、それに入退院を繰り返していた母親が居てそんな中に男子として生れて来た、それはそれは大もてになったのは当たり前、一日中孫は茶の間の前の親父の胡座の中だつた、それ故抱き癖がついてしまつた事は自然な事それに妹達もいるので長男は家族 心中だった。
その内、孫を巡つて親父と衝突し私が家を出て行くと云うと中に入った母は出るなら親子三人で出て行なさい、と割って入り女房も必死に引止た事もあり無事収まった。
その後の親父の姿が小さく見えていた、後になって親不行な息子だつたと反省する。
同じ頃、すぐ下の妹が嫁いで行った、母親は私に嫁を見け孫の顔を見て一番上の娘を嫁がせると、もうその先の時間はなく息を引き取って行った、54歳の短すぎる人生だったと思っている。
後で判った事だったが、入院中に付き添いのごけさんを連れ添いを決めていた、凄い女性であったとつくづく思う、残念ながら人と人との相性は微妙で結局実らなかったが、その後小柄なきっい女性を見っけ札幌に出て行った。
間もなくして、放漫経営が祟り私の衣料品越後屋が倒産する、夜逃げする様に親父を追って札幌へ出る、一年後くらいに円山公園の近くに釣具店開業の援助をしてくれる。
30歳なったばかりで、札幌の住人となって行く、昭和の良き時代だった。

さて、昨日の朝バリーュームを飲まされ二日間トイレ通いつめている、そろそろ治まってくれないかと恨めしくもある。