<あらざらむ この世のほかの 思ひ出に
いまひとたびの 逢ふこともがな>
(あたし もう長くはないわ あなた
あの世へ旅立つ思い出に
もういちど
せめてもういちど
あなたにお逢いしたいわ)
・『和泉式部集』には、
「こころあしきころ、人に」とある。
式部は病床にあって、
(もしかして、
このままはかなくなってしまうのじゃないかしら?)
と心細くなり、男にこの歌を贈ったのである。
和泉式部の歌は今もファンが多く、
私もこの人の歌が好き。
和泉式部の歌は底深い。
式部の父は大江雅致(まさむね)、
母は太皇太后・昌子の乳母だった人、
式部は天元二年(979)ごろ生まれた。
両親の仕えた昌子内親王は朱雀天皇の皇女で、
冷泉天皇の中宮であった。
和泉式部も母と共にその御殿に仕え、
やがて父の下僚だった橘道貞と結婚した。
道貞が和泉守になったので、
彼女の名を和泉式部という。
この結婚で彼女は娘を得た。
歌人として若くから名高い式部であったが、
愛する夫と可愛い娘に囲まれて、
幸せな人生のスタートであった。
ところが運命は彼女に数奇な恋の遍歴をさせる。
昌子中宮が病まれ、そのお見舞いに、
冷泉院第三皇子・為尊(ためたか)親王が来られて、
中宮のお側に仕える式部をみそめられた。
その時、親王は二十二歳、
式部は二十六、七であった。
美しく若き多情多感の貴公子は、
才たけた女流歌人と烈しい恋に落ちた。
夫の道貞は男の面子を重んずる人だったとみえて、
妻を離別した。
父も怒って式部を勘当する。
しかし為尊親王は二年のちに亡くなられた。
ついでその弟の敦道親王と式部の恋がはじまる。
美貌のプリンスと年上の女の情事は、
はじめは人々にささやかれるだけだったが、
やがて若い親王が夢中になられて、
恋人をお邸の一間に迎え、
そのために親王妃が怒ってお邸を出られる事態となって、
恋人たちはごうごうたる非難の矢面に立ち、
スキャンダルにまみれることになる。
やがて敦道親王は、
人生を恋に燃焼しつくしたごとく、
四年ほどして亡くなられた。
まだ二十七のお若さだった。
この親王との恋のゆくたてを書いたのが、
『和泉式部日記』である。
しかし彼女ほどの才媛を、
当時の上流貴族のサロンが無視するはずはなく、
やがて道長のお声がかりで、
式部は一条天皇の中宮・彰子(道長の娘)に、
仕えることになる。
恐らく成人していた娘の小式部内侍(こしきぶのないし)、
と共に出仕したのであろう。
そして道長の信頼する家臣だった藤原保昌と再婚。
五十何歳かの夫に従って式部は大和・丹後の任地へ下った。
その後、一人娘、小式部に先立たれる。
式部の没年は不詳である。
保昌は沈着で度量のひろい男だったようで、
かなり晩年まで連れ添うた形跡がある。
和泉式部は当時の女流文学者たちと、
交流はあったが、紫式部は、
和泉式部の歌を、本格派ではない、
とけなしている。
私から見ると、和泉式部は、
伝統の枠にはまり切らない、
率直な心の叫びをうたうという歌人である。
だから千年のちまで彼女の歌は、
人の心をうつのであろう。
和泉式部は、
なぜか男がむらがってしょうがないという、
男好きのする、魅力ある女だったようだ。
式部は恋のいのちの無常を知りつつ、
恋に賭けねば生きられない、
淋しがりやの女だったのかもしれない。
<暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき
遙かに照らせ 山の端の月>
無明の闇の底で、
式部は珠玉の美しい歌を吐きつづけて、
生涯を閉じた。
(次回へ)