<滝の音は たえて久しく なりぬれど
名こそ流れて なほ聞こえけれ>
(そのかみ
嵯峨のみかどが賞でたもうたという有名な滝
いまは涸れて滝の音も
すでにとだえて久しい
けれどその名はいまも世に流れ
人々の耳には
音なき滝の音が聞こえている
ありし日の栄えをしのんで)
・『拾遺集』雑に、
「大覚寺に人々あまたまかりたりけるに
ふるき滝をよみ侍りける」
として出ている。
京都嵯峨野の大覚寺は、
もと嵯峨天皇の離宮で、
ここに有名な滝があり、
滝殿をつくって賞でられたという。
公任(きんとう)の時代からいうと百数十年前。
この山荘が寺とされて大覚寺となったのは、
清和天皇の御代であるが、
赤染衛門にも、
「大覚寺の滝殿をみてよみ侍りける」として、
<あせにける いまだに懸る 滝つせの
早くぞ人は 見るべかりける>
『後拾遺集』の歌がある。
大覚寺の滝は有名だった。
しかし赤染衛門の歌では、
滝はまだほそぼそながら落ちているようであり、
公任のほうは全く流れていない感じで、
同時代の観察として矛盾がある。
これにつき、
京都林泉協会の方が、
示唆して下さったところによると、
公任のいう「ふるき滝」は、
大覚寺へまいる途中の鳴滝、天然自然の滝で、
赤染衛門のほうは、
大覚寺内の人工の石組の滝(名古曾の滝跡ではない)
だったのではありませんか、
ということである。
なお研究を待たねばならないが、
私は旧来の大覚寺の滝とした。
ところでこの歌は、
魅力のない歌として、
古来から評判が悪い。
公任ならもっといい歌がたくさんあるのに、という。
なんで定家がこんな駄作を入れたのだろう、と。
藤原公任(966~1041)は、
王朝の全盛時代に活躍した花形貴族の一人である。
歌人・歌論家として有名、
死後も長く歌道の師範と仰がれた。
道長時代の四納言と世にいうが、その一人。
博学多才で出自もよく、
かなり負けぬ気の強い男で、
かつ自己顕示欲も猛烈だった。
三船の才、とうたわれている。
これはある年、
道長が大堰川で遊んだとき、
漢詩の船、音楽の船、和歌の船と分けて、
それぞれの道にすぐれた人を乗せた。
この公任大納言はどれにもすぐれていたので、
道長は、
「どの船にお乗りになられるか」と聞いた。
そう聞かれるだけでも身の栄誉であろう。
公任は、
「では和歌の船にしますかな」といって、
そこで詠んだ歌。
<をぐら山 嵐の風の 寒ければ
もみぢの錦 着ぬ人ぞなき>
さすがは、と人々が感じ入ると、公任は、
「いや、漢詩の船に乗ればよかった、
そしてこの歌くらいの詩を作っていれば、
名声はいっそうあがったろうに、
惜しいことをした」
といったという。
その自負と得意、見るべし。
この人は、才にまかせて、
ちょっと口の軽すぎるところがあったようだ。
妹の遵子(じゅんし)が、
円融帝の中宮になって入内するとき、
その行列が兼家の邸の前を通った。
兼家の娘も円融帝の女御の一人で、
さぞ遵子の立后をうらやましくもせつなくも思って、
見送ったであろう。
公任は得意のあまり、
「こちらの女御はいつ立后なさるのかね」
と放言、兼家の恨みを買った。
ところが遵子にお子はできず、
兼家の娘の詮子に生まれられた皇子が、
一条帝として皇位に即かれ、
立場は逆転する。
詮子が皇太后として意気揚々と入内するとき、
詮子側の女房に、公任は、
「お妹さんの素腹の后はお元気?」
とやられてしまった。
素腹の后とは「うまずめ」というよりも、
ものすごい悪口である。
公任が招いた口災だから仕方ない。
紫式部も、中宮彰子の御殿で、公任に、
「このあたりに若紫はいらっしゃいませんか?」
と声をかけられたことを日記に書いている。
ちょっとおべっかの匂う言い方で、
あんたの小説、読ましてもらいましたで、
といわんばかりである。
ともあれ、大覚寺から大沢の池あたり、
王朝の風趣横溢で、京の風光の中で、
私の愛するものの一つ。
『源氏物語』をドラマ化するときなどは、
ぜひこのへんの四季をじっくり、
時間をかけて撮ってほしい。
(次回へ)
・映画化、ドラマ化された『源氏物語』は、
男女の密会場面に多くの時間を割いていて、
それよりも、京都の美しい四季に重きを置いた、
映画やドラマを私も見たいです。
人間よりも自然の美を!と思います。