<わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の
人こそ知らね 乾くまもなし>
(わたしの袖は
たとえればあの沖の石のよう
ひき潮にもあらわれぬ深海の石
ぬれにぬれ
人は知らないけれど
涙で乾く間もないの
みのらぬ恋を悲しんで)
・この歌は題詠に応じたもの。
『千載集』巻十二の恋に、
「石に寄する恋といへる心を」
として出ている。
雨や月、鳥や花はわかるけれど、
石に寄せる恋、
とは風変わりで突飛である。
王朝末期の歌も、
アイディアが出尽くしてしまった、
というところ。
しかし讃岐の歌は、
それを逆手にとって、
意表をつく面白さで歌いあげる。
袖が乾く間もない、
というのは常套語であるが、
それと沖の石の取り合わせが斬新である。
いかにも王朝才女の歌である。
讃岐はこの歌によって、
「沖の石の讃岐」とよばれるほど、
有名になった。
二条院讃岐というのは、
二条天皇に仕えた讃岐という女房である。
本名も生没年もわからない。
武人、源三位頼政の娘である。
父、頼政は源氏の一門であるが、
平氏全盛の世の中で、
中々進退に苦労した。
もともとは武人といっても都の育ち、
皇族や公卿に仕えて政界の空気も吸い、
精神風土の半分は長袖者流になっていた。
官位が進まないことを苦にしていたが、
幸い歌に長けていたので、
それで以て政界トップの心を動かし、
少しずつ昇進して四位まで昇ったが、
それから上へは容易にのぼれない。
頼政は歌を作って同情を引いた。
<登るべき 頼りなければ 木のもとに
椎を拾ひて 世を渡るかな>
椎と四位をかけている。
七十五歳でやっと従三位となった。
そういう頼政が、
平家の横暴を憤って、
以仁王を奉じて起とうとしたのは、
どういういきさつだったか、
結局、ことは成らず、
敗れて宇治の平等院で自刃した。
彼の辞世は、
<うもれ木の 花咲くことも なかりしに
みのなるはてぞ 悲しかりける>
公卿と武家、
歌人と武人、
二つの世界で生きざるを得なかった頼政は、
その矛盾に敗れたのだろうか。
その娘の讃岐は、
頼政の歌才を受け継いだのか、
十二世紀末~十三世紀はじめの、
有名な歌人になった。
保元・平治の乱を、彼女は見て育った。
お気の毒な崇徳院の憤死も聞いた。
世におごる平氏一門の栄華も見た。
老いた父が男の夢をかけて起ち、
敗れたのも見た。
洛中大火、大飢饉、大地震、
讃岐は都のどこかで見続けていた。
父や兄の夢を自分に托されたかのように、
讃岐は美しい歌を詠み続けて生きた。
<山たかみ 峯のあらしに 散る花の
月にあまぎる あけがたの空>
<鳴く蝉の 声もすずしき 夕暮に
秋にかけたる 杜のしたつゆ>
<世にふるは 苦しきものを 真木の屋に
安くも過ぐる 初しぐれかな>
このころはすぐれた女流歌人が輩出している。
動乱時代は女をたくましく、
躍動させるのであろうか。
(次回へ)