むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

91番、後京極摂政前太政大臣

2023年07月01日 08時02分18秒 | 「百人一首」田辺聖子訳










<きりぎりす なくや霜夜の さむしろに
衣かたしき 独りかも寝む>


(こおろぎが鳴いている
霜夜の このしんしんと身にしむ寒さ
寒いむしろに私はわが片袖をひとつ敷いて
ひとり寝をするのか・・・)






・きりぎりすというのは、
こおろぎのこと。

さむしろは小さな莚(むしろ)、
または狭い莚に、寒いをかけている。

いかにも寒そうだし、
莚に着ているものを敷いて、
震え震え、一人で寝る、というのだから、
現代の我々は何となく、
貧乏ったらしい作者を想像する。

しかし作者は、
そういう素材でもって、
寒さの美を定着したのである。

この歌がいかにも寒そうな感じを与えれば、
そしてしらべが流麗であれば、
作者のねらいは成功したといえる。

現実の作者の境遇を、
私小説風にうたったものではない。

この長々しい名前を持つ作者、
どんなにうっとうしいオジンであろうか、
と思われるが、
実はさっそうたる才人の貴公子である。

藤原良経(よしつね)、
名門の御曹司(関白九条兼実の子)で、
年若くして太政大臣になった。

歌を俊成に学んで、
漢詩文や書もよくするという文化人であった。

だから後鳥羽天皇の信任もあつく、
『新古今集』の撰者の一人であった。

この歌は、『新古今集』第五・秋の下に、
「百首歌奉りける時 摂政太政大臣」
としてのせられている。

ところで「きりぎりす」の歌には、
厄介な要素がある。

伝統的な古歌の投影があるのだ。

これを読む人は常識として、
その古歌を知っていないといけない。

昔の歌詠み、
ならびに一般教養人としては、
初歩的な常識だったようである。

良経のこの歌は『古今集』の、

<さむしろに 衣かたしき 今宵もや
われを待つらむ 宇治の橋姫>

あるいは『万葉集』の、

<吾が恋ふる 妹は逢はずで 玉の浦に
衣かたしき ひとりかも寝む>

などから「本歌取り」されているという。

古い時代の名歌の一部を、
どこかにとりこんで歌を作るやり方が、
王朝末期、行われた。

それを本歌取りというが、
そのころの人は、
教養として古来の名歌は、
たいてい知っているので、
良経が「きりぎりす・・・」の歌を作ったとき、

(ああ、あの歌を本歌としているな)

とすぐ悟ることができるのである。

そうすると、
良経の歌の背後に古歌の光彩が射し、
歌は微妙に色合いを変えて趣深く面白くなる。

そこにユニークな美が生まれ、
新しい感性が触発される。

なかでも定家はこの技巧のうまい人でもあった。

「きりぎりす」は秋の歌になっているが、
本歌は恋の歌である。

されば、本歌を思いだしたとたん、
歌の風趣が艶な色合いを帯びて顕つ。

寒さを愚痴っているだけではない。
恋人に逢えぬ嘆きの訴えがある。

その千変万化する色の変わり目をたのしむ、
というのが本歌取りの技巧であるが、
現代の我々からみると、
中々手がこんでわずらわしい。

ところでこの良経という人、
位、人臣をきわめていたけれど、
最後は不幸であった。

建永元年(1206)三月のある夜、
寝所で何者かに天井から槍で刺し殺された。

『新古今集』にかかる恨みともいうが、
良経は、
俊成や定家ら御子左家のパトロンであったから、
その急逝を定家は悲傷し、
落胆した。






          


(次回へ)

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