むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

69番、能因法師

2023年06月09日 08時37分18秒 | 「百人一首」田辺聖子訳










<嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は
竜田の川の 錦なりけり>


(三室~みむろ~の山の
紅葉~もみぢ~ばは
嵐に散りまごうて
竜田の川に降りこむ
川面はさながら
繚乱の錦)






・『後拾遺集』巻五・秋に、

「永承四年(1049)内裏歌合わせによめる」

として出ている。

これは昔から地理的に矛盾があると指摘されている。

三室山と竜田川は離れており、
三室山の紅葉が竜田川へ散るわけはない、という。

三室山は奈良県高市群明日香村とする人、
生駒郡斑鳩町の神南備(かんなび)山という人、
さまざまである。

竜田川は大和川の上流というが、
これも諸説あり、
ともかく、三室山も竜田川も、
紅葉の名所としては名高いが、
両者の地理的位置はあいまいである。

能因は実証的によんだわけではない。

竜田川、三室山、という言葉から、
引き起こされるイメージ、
目もあやな錦繍の紅葉の美のイメージによりかかって、
絵のような一首をつくりあげた、
というだけであろう。

三室山の紅葉が竜田川へ降るわけはない、
と目くじらたてていうほどのこともあるまい、
と思われる。

能因法師は永延二年(988)の生まれ、
没年はわからない。

能因法師の有名な逸話が『古今著聞集』にある。

能因はあるとき、
歌作に没頭していて、
ふとわれながら名作と思う歌を得た。

それは、

<都をば 霞とともに たちしかど
秋風ぞ吹く 白川の関>

ところが都にいてこの歌を作ったというのでは、
値打ちがないと思って、
人にも会わず長いこと家に籠り、
日に当たって顔を黒く焼いてから、

「みちのくへ修行に行ったときによみました」

と披露したという。

歌道執心の人々は多いが、
これほど作為的に凝るとおかしい。

その前にも、

「しかすがのわたりにてよみ侍りける」

とあって、

<思ふ人 ありとなけれど ふるさとは
しかすがにこそ 恋しかりけれ>

の一首があり、これも都にいながら作った歌。

能因は「やらせの元祖」といっていいだろう。

こういうことは女流にもある。

時代はやや下って、
鳥羽帝中宮の待賢門院の女房で、
加賀という女流歌人がいた。

あるとき、こんな歌ができた。

<かねてより 思ひしことよ 伏柴の
こるばかりなる 歎きせむとは>

(前から思っていましたわ。
こりごり、というような歎きにあうだろうてことを。
だから恋するのはためらったのに、
やはり恋に落ちて、
こんな辛い目にあってしまったのですわ)

この歌は縁語で飾られている。

伏柴は柴のことであるが、
「こる」を言い出すための序である。

「こる」は懲るであり、樵るでもある。

それに「歎き」のきは「木」でもあるから、
柴や樵とも関連する。

たいへんよく考えられた、
優美な歌である。

加賀はこの歌を年来手もとにおいて、
どういう風に発表しようかと考えていた。

同じことなら、
しかるべき男と恋をして、
やがて捨てられた時にこれを詠んだら、
評判になって勅撰集に入れられるかもしれない、
そうなれば身のほまれ、

「歌もあたしの名も世に出るってもんだわ」

と加賀は考えた。

彼女が白羽の矢を立てたのは、
花園左大臣・源有仁という一級クラスの貴族。

後三条天皇の皇孫、
当代屈指の文化人であり、美男であった。

左大臣は言い寄ってきた女が、
いつわりの恋をしかけたとは思わないで、
いっとき恋人になる。

しかし案の定というか、
加賀がそう仕向けたのか、
二人の仲は冷え、
この時とばかり加賀は伏柴の歌を贈った。

左大臣はまさか、
やらせとは思わず歌に心動かされた。

心打たれてその歌を人にも見せ、
評判になった。

やがてまんまと『千載集』に載せられた。

加賀の計略は図に当たったわけである。

人生から芸術作品を創作せず、
創作に人生を強引に押し込む、
そのやり方がユーモラスで、
古来から、能因たちのエピソードは、
人々に愛されている。






          


(次回へ)

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