<小倉山 峰のもみぢ葉 こころあらば
今ひとたびの みゆき待たなむ>
(小倉山の紅葉よ 心あるならば
その美しさを そのままに
どうか散らずにいておくれ
もう一度帝の行幸(みゆき)があるはず
その晴れの日を待っていておくれ)
・『拾遺集』巻十七・雑秋にある。
宇多院が大井川に行幸され、
小倉山の紅葉の美しさに感じ入られて、
これはぜひ、おん子の醍醐帝にもお見せしたい、
と仰せられたので、お供していた藤原忠平、
(貞信公は死後のおくり名)が、
<さようでございますなあ。
その旨、主上に奏上いたしましょう>
といってこの歌をよんだ。
その日が延喜七年(907)九月十日ともいい、
延長四年(926)ともいい、
我々にはどちらかわからぬが、
天皇の大井川行幸は、醍醐帝のときにはじまる。
小倉山は京の西、嵯峨にある。
大井川をへだてて対岸に嵐山があり、
水清く、紅葉は映え、まことに風光明媚な名所である。
定家はこの小倉山に山荘を持っていて、
そこで百人一首を選んだので、
「小倉百人一首」とよばれる。
この歌は、中々しらべも美しく、
しかも大井川や嵯峨野、嵐山、小倉山など、
借景にして、実質以上に風雅な匂いが添い、
歌が巨きくなっている。
おいしいものを食べたり、
きれいな景色を見ると、
親は子を思いだし、
あの子にも体験させてやりたい、
と思う親心がある。
宇多さんもそう思われたのかもしれない。
醍醐帝はいつもにこやかなお顔でいられた。
<むつかしい顔をしていると、
人はとっつきにくいと思って、
話しかけないからね。
にこにこしていると、
みな話しかけやすいだろう。
大事なことも些細なことも聞こうと思ってね>
といわれたそうである。
ともあれ、
日本的な風雅趣味はこの時代あたりから濃くなってゆくので、
趣味を同じくされる御父子であったかもしれぬ。
忠平は、基経の四男で、
かの道真をおとしいれた時平や、
女流歌人・伊勢の愛人だった仲平の同腹の兄弟。
この兄弟は「三平(さんひら)」とよばれ、
当時の人気男たちであった。
そのうち忠平は兄弟の中で最も順調な人生を送った。
摂政十二年、関白八年、
朱雀・村上両帝の伯父になり、
藤原氏全盛の基をきずき、
彼の子孫が長く政権を握った。
忠平は兄の時平と違い、
温厚な性格で、左遷後の道真とも音信を交わした。
宇多院とも仲がよく、
院の取り巻きの一人であった。
そこでこの歌もできたのであろう。
醍醐帝の御代に、
『延喜式』という法典五十巻、
『延喜格』十二巻を完成し選進している。
(次回へ)