今朝投稿しましたのは26番でした。
投稿後気付いたのですが、
本来なら25番を投稿するはずでした。
順序が逆になりましたが、
25番を投稿します。<m(__)m>
<名にし負はば 逢坂山の さねかづら
人に知られで くるよしもがな>
(ねえ きみ
逢坂山のさねかづらって
暗示的な名だと思わないかい?
きみに「逢う」の「逢坂山」
きみと「寝る」の「さ寝」なんて
ああ そういえば
さねかづらは蔓草さ
ツルをくるくるたぐりよせるように
人目につかず きみのもとへ
「くる」方法はないものかねえ)
作者の三条右大臣にはわるいが、
<どうっちゅうことない>歌である。
たいそう技巧的な歌で、
このウイットは受け手に等質の才気がないと、
理解されにくい。
しかしこの作者が生きていた頃は、
この歌をもらった相手は、
とても面白く思ったはずで、
その時代では気の利いた歌だった。
『後撰集』巻十一の恋の部に、
「女のもとにつかはしける」として出ている。
作者の三条右大臣は藤原定方(873~932)、
父は内大臣・高藤。
母は身分低い山科の豪族の娘であった。
この高藤と娘の間には、
『今昔物語』に伝えるロマンスがある。
高藤は若い頃鷹狩に出かけ、
山科で雷雨にあい、
そのあたりの邸で雨宿りをした。
そうしてその邸の娘と一夜を過ごした。
その娘を恋しく思いながら再会は出来なかった。
何年かしてやっと高藤が訪れてみると、
娘はいよいよ美しくなり、
そばに可愛い女の子までいた。
雨宿りの一夜の契りにもうけた女の子だった。
高藤は喜んで母子を邸へ引き取り、
他に妻を持たず、生涯仲良く連れ添い、
二人の男の子、定国、定方を持った。
「さねかづら」の作者は、
そんな両親のロマンスから生まれた人である。
雨宿りの姫君が一家に幸運をもたらした。
この姫君が年ごろになって、
父の高藤は源定省(みなもとのさだみ)という官吏と、
結婚させた。
定省は光孝天皇の皇子であるが、
臣籍に降下していたのだった。
二人の間には男の子が生まれた。
光孝天皇の崩御されたとき、
にわかに運命は変った。
源定省は再び皇族に復帰し、
皇位について宇多天皇となる。
姫君は女御と呼ばれ、
その男の子は皇太子となった。
高藤は昇進し、
皇太子が即位して醍醐天皇になると、
内大臣となった。
二人の息子、定国、定方とも立身を遂げた。
山科の村娘との恋の話を、
醍醐天皇はその母君に聞かれることがあったのだろうか。
その故地をなつかしく思われ、
<死後の陵はそのあたりに>
と遺勅があったという。
雨宿りした豪族の家をのちに寺にしたのが、
勧修寺(かんじゅじ)で、
高藤系の氏寺となった。
定方は右大臣にまで累進する。
邸が三条にあったので、
三条右大臣とよばれた。
この時代、
男は人目をしのんで女のもとへ通うならわしであるが、
追い追い、人の噂も高くなり、
通うのがむつかしくなる。
<困ったねえ。
人に知られずに通う手立てはないものかしら>
それだけのことをいうのに、
手のこんだ技巧をこらしているところが、
王朝らしい。
(次回へ)