「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

10番、蝉丸

2023年04月12日 08時46分21秒 | 「百人一首」田辺聖子訳










<これやこの 行くも帰るも わかれては
しるもしらぬも 逢坂の関>


(これがかの有名な逢坂の関よ
東くだりの旅人も 都へ帰る旅人も
知る人も知らぬ人も 別れては逢い、
逢うては別れ して行き交う
人の世の別れと出会いを暗示するのか
その名も 逢坂の関)






・『後撰集』巻十五・雑に、

「あふ坂の関に庵室をつくり住み侍りけるに、
ゆきかふ人を見て」として出ている。

百人一首のかるたの絵で見ると、
蝉丸はかぶりものをしていて、
僧ともいえず俗体、ともいえず、ふしぎな姿、
「坊主めくり」などすると議論がわくところである。

蝉丸というのは伝説的な人物で、
はっきりしない。

定家の時代は実在を信じられていたかもしれないが、
その生涯は神秘のベールに包まれている。

『今昔物語』では、
蝉丸は敦実親王(宇多天皇の皇子)の雑色、
(ぞうしき 雑役をつとめる身分の低い従者)
ということになっている。

親王は音楽家として著名で、
琵琶をよく弾かれた。

蝉丸は長年お仕えしてその音色をおぼえ、
自分もいつかその道の名手となった。

のち盲いて法師となり、
逢坂の関に庵を結んで暮らしていた。

この蝉丸の琵琶を聞きたいと熱心に望んでいたのが、
源博雅という、これも有名な音楽家である。

琵琶には流泉・啄木という名曲があるというが、
いまの世では蝉丸しか知る人はないという。

蝉丸が亡くなればその名曲は絶えてしまう。
ぜひ、その曲を聞きたい博雅は思い、
蝉丸を召して<京に住みませんか>といった。

蝉丸は答えず、歌で返した。

「世の中は とてもかくても 過ごしてむ
宮もわら屋も 果しなければ」

(どこに住んでも同じこと。
宮殿もわらぶき小屋も、
永久に住み通せるものではない、
いつかはお迎えがくるのでございます・・・)

博雅はそれを聞いて、おくゆかしく思い、
いよいよ蝉丸の琵琶が聞きたくなった。

それで自身、逢坂の関までゆき、
庵の外からこっそりうかがっていた。

もしかして蝉丸がその秘曲を弾くこともあろうかと、
期待したのである。

毎夜毎夜、逢坂まで通い、
今か今かと思ううちに三年たってしまった。

三年目の八月十五日の夜。
月はかげり、風吹き、あわれ深い夜となった。

こんな宵こそは蝉丸も感興を催すであろうかと、
博雅は勇んで逢坂へ出かけた。

果たして蝉丸は見えぬ目に月を仰ぎ、
物思いにふけりつつ、琵琶をかきならす。

博雅は嬉しく耳を傾けていると、
法師は歌を詠んだ。

「逢坂の 関のあらしの はげしきに
盲ひてぞゐたる 世を過ごすとて」

(ああ、もののあわれというのは、
こんな夜のことをいうのやろか。
誰ぞ、もののあわれの解るお人は、
いやはらへんものかしらん。
音楽好きのお人でもいやはったら、
どない面白う、話も弾むやろうか)

博雅は名乗り出ずにいられなかった。

<私は都に住む博雅と申すもの。
そなたの琵琶が聞きたさに、
三年通いつめたのです>

蝉丸は博雅の熱意と、
音楽に対する愛情を賞で、
心を開いて博雅を招き入れた。

そうして乞いに任せて、
流泉・啄木の名曲を弾いた。

博雅はそれをよくよく聞いて教わり、
「返す返す喜びにけり」と本にはある。

『平家物語』や世阿弥の謡曲では、
蝉丸は醍醐天皇(十世紀前半)の第四皇子という、
尊い身分になっている。

謡曲「蝉丸」は、
盲目のため逢坂山に捨てられた皇子蝉丸の宮を、
姉の逆髪の宮、

(このネーミングの発想もすごい。
髪が逆さに生え、なでつけてもさがらないという、
つまり二人共皇子女に数えられぬ不幸な身の上)

が訪れて互いに運命を嘆き、
別れてゆくというもの。

これが浄瑠璃や歌舞伎に脚色され、
蝉丸のイメージは芸能分野で多彩に展開してゆく。

しかし実在の蝉丸は、
いよいよあいまいとなり、
かすみの奥にまぎれてしまう。

そういえば「これやこの」の歌も、
どこか詠み人知らずの伝承歌のようでもあり、
ひょっとしたら王朝ごろから多数いた芸能集団を、
蝉丸という一人の人物に集約し象徴したのかもしれない。






          


(次回へ)

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 9番、小野小町 | トップ | 11番、参議篁 »
最新の画像もっと見る

「百人一首」田辺聖子訳」カテゴリの最新記事