<瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の
われても末に あはむとぞ思ふ>
(岩を噛み ほとばしる急流
滝の早瀬は岩に堰かれ
しぶきをあげて二つにわかれる
ぼくときみも 今は堰かれて別れても
さきには必ず再会して
この恋をつらぬくつもりだよ)
・『詞花集』恋の部にある。
どこか切迫した、
悲痛なおもむきのある恋歌である。
「われても末に あはむとぞ思ふ」の、
「あふ」は王朝では、
男女歓会を遂げたことをさすのであって、
ただ顔を合わせるということではない。
されば崇徳院さんは、
この恋をうまく遂げたかどうか、
という興味をもたないではいられない。
ところが、崇徳院さんというお方は、
ラブロマンスよりも、
血と権謀にまみれた数奇な運命の、
気の毒なお方だった。
崇徳院さん(1119~1164)は、
保元の乱の渦中のの人であった。
鳥羽天皇の第一皇子として生まれられたが、
父君はこの皇子に愛も親しみも持たれない。
「あれは私の子ではない。
おじいさまの子だ。
だから私からいえば叔父にあたるのさ。
叔父子だよ」
鳥羽帝もお若かったから、
こんなことを放言してあざけられるのだった。
鳥羽帝の中宮は、
美女のきこえ高い待賢門院(たいけんもんいん)
この人は鳥羽帝のおじいさま、
白河院の養女として育てられたが、
かねていまわしい噂があった。
入内前に、
養父の白河院と通じていられたというのである。
しかし白河院在世中は、
表面ことなく、
鳥羽帝は待賢門院との間に、
たくさんの皇子皇女をもうけられた。
何といってもこの時代は、
白河院の院政時代、
政治の実権も威令も白河法皇の手にあって、
天皇は飾り物にすぎない。
第一皇子が五つになられると、
早速、白河法皇のご意志で、
鳥羽帝は譲位させられた。
その幼帝が崇徳天皇である。
白河院が崩じられると、
鳥羽上皇は待っていられたように、
そのあとをおそって院政を執られる。
待賢門院との間もとみに疎くなり、
新しい寵妃・美福門院との間に、
生まれられた新皇子を、
わずか三歳で位につけられる。
これが近衛天皇。
崇徳院は引きずり下ろされるように、
皇位を遂われた。
時に二十二のお若さであった。
報復措置といっていい。
自分に責任のないことで、
父君にうとまれる崇徳院のお胸のうちに、
やりばのない怨念が噴き上がってきたのも無理はない。
皇統をめぐる皇室関係者たちの確執は、
想像を絶する激しさである。
近衛天皇が十七歳で崩じられると、
すぐさま鳥羽院・美福門院は、
崇徳院の弟皇子を位につけられた。
これが後白河天皇。
皇太子には後白河の皇子が立った。
崇徳院はせめて皇太子には、
私の皇子をと思っていられたのに・・・
崇徳院の憤激に、
藤原一族の内紛がからみ、
武士もそれに加わった。
鳥羽院の崩御をきっかけに、
崇徳院は新帝・後白河に戦いを挑み、
やぶれて讃岐に流される。
これが保元の乱(1156)
定家の生まれるより六年前のこと。
讃岐に流された崇徳院の怨念と、
痛憤はやむときがなく、
生きながら鬼となって、
憎悪と妄執にあけくれ、
九年後崩じられた。
陰惨なご生涯であった。
そう思って「瀬をはやみ」のお歌をみると、
滝川のとどろに鳴る音は、
歯ぎしりするような執念のように思われ、
恋の歌というにはあまりにも激越である。
(次回へ)