<君がため 惜しからざりし 命さへ
長くもがなと 思ひけるかな>
(きみへの思いが実をむすんで
もし愛し愛される仲になるならば
この命を捨ててもいい
死んでも惜しくはない
そう思っていたんだ
しかしほんとにそうなったら 気持ちは変った
ぼくは生きたい
長く長く生きて いつまでもきみと愛し合いたい
そう思うようになったんだ>
・純情な恋の歌である。
二十一歳で夭折した美青年貴族の歌である。
「もがな」という言葉は、
「・・・したい」「・・・であってほしい」
という願望の助詞である。
この作者は恋を得た。
恋を得ると更に人は貪欲になる。
もっともっと、この幸福をむさぼりたいと思う。
恋の喜びを永遠に楽しむため、命長かれと願う。
しらべも美しく、切実な情趣があって、いい歌である。
この歌は『後拾遺集』に、
「女のもとより帰りてつかはしける」とある。
作者の義孝は摂政・藤原伊尹(これただ)の三男。
歌才と美貌は父ゆずり。
父と並んで百人一首に入れられている。
父は45番・謙徳公。
伊尹は時の帝・円融天皇の伯父であり、
東宮(のちの花山帝)の祖父であり、
摂政であった。
その御曹司であるから、
義孝は、たいそうもてたのである。
ところで、義孝が、その人のために長く生きたい、
と願った女の名前はわからない。
行成という男の子を得た、
正室の夫人であったかどうかは、
知るよしもない。
ただ義孝は、女性に人気のあるわりには、
真面目な人柄だったようで、
それも仏道に心を寄せ、
抹香臭いところがあった。
他の貴族の子弟たちのように、
宮中の女房たちと浮ついた交渉を持ったりしない。
気軽に冗談をいったり、
世間話をしたりしない。
端正な青年だった。
あるとき、
そんな義孝が女房のたまりばへぶらりと寄り、
あれこれうちとけて雑談した。
女房達は珍しいことと思って歓待した。
そのうち夜も更けて義孝は席を立った。
どこへ行くのか気になった女房たちは、
人をやってこっそり尾行させた。
義孝は門を出、法華経を尊く誦しつつ、
氏寺の世尊寺に着いた。
人がなお見守っていると、
義孝は東の対の軒下の紅梅の下に立ち、
西に向かって何度も拝んでいた。
その話を聞いて人々は感動した。
栄華に誇らぬ真摯で求道的な人柄だった。
そのときの姿は、
月明るく、かすみわたる早春の夜空のもと、
白い直衣に濃い紫の指貫(はかま)、
直衣の裾から色のある下衣が見える。
顔色は月光に映えていよいよ白く、
鬢の生え際などもくっきり黒々と、
まことに美しい男ぶりであった。
供に童一人を連れているのみ、
というのも粋なたたずまいである。
義孝のファッションも世人の関心のまとであった。
貴族たちは野遊びの日、
みな、義孝を今か今かと待っていると、
遅れてやってきた彼は、
白い衣を何枚か重ね、その上に薄い紅茶色の狩衣、
薄紫の指貫という地味ななりで、
それが贅をこらした服装よりずっとすてきに見えた。
センスも抜群だったらしい。
法華経を常につぶやき、
紫檀と水晶の数珠を、
袖のうちにかくすように持っていた。
折しも天延二年(974)、
天下に疱瘡の病が広がった。
美しき兄弟はその厄に倒れた。
朝に兄が死に、夕方に弟・義孝は死んだ。
「一日(ひとひ)がうちに二人の子を失ひ給へりし、
母北の方のおん心地、いかなりけむ、
いと悲しくうけたまはりしか」
と『大鏡』にある。
二十一という短命の予感が彼に道心を起させたのか、
「長くもがな」と彼に思わせた女の悲しみも、
母君に劣らなかったであろう。
子の行成は有名な書家である。
(次回へ)