むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

2、ミミズの心 ⑤

2022年10月26日 08時49分44秒 | 「浜辺先生町を行く」  田辺聖子作










・「何だか、たよりないですなあ。
テレビの刑事ものやと、
もっとさっそうとしているんですけどなあ」

と松永君はさっそく人民の公僕を批判する。

「まあ、あんなところでしょう」と私はいったが、
松永君がたよりないというのは、
警官がせっかく採集した犯人の指紋の黒いセルロイドを、
忘れていったからだった。

私はそれより、あと大忙しだった。

割烹着をつけ、
片端から掃除してまわった。

見知らぬ男たちが使用したものは気持ち悪くて、
みなクリーニングに出すことにし、
家で洗えるものは、洗濯機に抛り込んだ。

「松永サン、掃除機かけて」

「松永サン、お蒲団干して!」

という私のヒステリックな命令に、
青年は「ハイハイ」と従ってくれる、
ごく気だてのいい青年である。

しかし彼は奴隷的に言いつけ通り働いているのではなく、
いろんな発見が面白いから、
すすんで働いているところがある。

「この畳と押し入れは、
無理に作ったんですね、
前に住んでいたのは誰ですか」

「ドイツ人よ」

「なるほど、
それであちこちの鍵がみな頑丈なんですね。
天井が高いから冬は寒いやろうなあ・・・」

好奇心むらむらで調べてまわり、

「あッ、枕が二つ出ています。
カップルで泊ったんでしょうか」

と何やら嬉しそうな声をあげた。
紙クズや箱を片づけていて、

「やや、裁縫箱がこんなところに。
いつもここに出してあるんですか」

「いいえ、とんでもない。
ちゃんと棚にしまってあります」

「いよいよ女が泊ってます。
ちぎれたボタンか何か、つけたんでしょうな。
泥棒と別に、カップルがあいたところから入り込んだ、
複合被害というところですな。
ひととき、自分たちがこんな豪華な邸に、
住んでる夢を見て楽しんだんですよ」

「いやですねえ」

「いやですか、
ほほえましいやありませんか」

「けったくそわるい、という感じです」

「そうかなあ」

男と女の感じ方はちがう。
私は私の家でイチャイチャしていられては、
何となく業腹であつ。

私は決して旧道徳をふりまわす、
頭のかたい中婆さんではないつもりだが、
しかしおたのしみごとは、ヨソで、
という気がある。

松永君はのんびりと、

「嫉妬(やい)てるのかなあ、
つまり自分はもう卒業したのに、
人が現役でやってるのを見ると腹立つという」

「バカね!
卒業なんかしてませんよ、
留年してます」

若い者というと、
四十半ばの中婆さんは、
すでにおしとねすべりをしたはず、
という気があるらしい。

たとえ事実はそうだとしても、そんなことを標榜して、
卒業生という看板をかけるのはいやである。

松永君は屈託なく、
外へ出て草むらに立小便をしていた。

石段の上なので、
まさに中突堤の上に虹のしずくを、
きらめかせていることになる。

ポートタワーの先端もちょっぴり濡れたかもしれない。

「アハハ・・・
ここでやらかすと、
神戸市全市にふりかけたようやなあ」

松永君は感心した。
私は窓から叫んだ。

「ミミズにかけては腫れますよ」

「何がですか」

松永君はニコニコして家の中へ入ってきた。

「腫れたらわかります。
ミミズを怒らしたらダメです」

私は松永君が歌を披露してくれたお返しに、
友人の織田正吉さんの川柳を教えた。

<ミミズにも心があった 先が腫れ>

そういう俗説は、
松永君のような若い世代に伝えられているのか、
どうかわからない。






          


(次回へ)

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