むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

「わたしの震災記」 ⑯

2023年01月27日 09時25分08秒 | 「ナンギやけれど」   田辺聖子作










・災害対策本部が生田署に移された、
その間も各警察署には救いを求める人々が殺到していた。

地震直後の西宮署にかけこんできた男性、

<生きているんです。たすけてください>

生き埋めになった妻子。
受付の高柳巡査は男性について走る。
 
途中、ほかの住民から、
<うちも助けてほしい>とすがられるが、
<各自で対応して>と答えざるを得ない。

崩れた家の中に母親と幼児二人、

瓦礫のすき間に入って、
母子を助けることができた。

幼児を抱き上げると腕に幼児の震えが伝わる。

<うれしかった>と。

(1995・2・16 神戸夕刊)

午前六時半、越木岩交番(西宮)の小西巡査は、
傾いたマンションから、十人の男女を、
次々背負って助け出す。

七時二十分、刑事一課の斎藤警部補は、
中須佐町の倒壊家屋から一人を救出、
土ぼこりが立ちこめる中を、
<のこぎりとバール!>と住民に叫ぶ。

必死に手作業で掘りすすむ。

やっと老夫婦が生還したのは、
正午をまわっていた。

周囲から喚声があがるが、
すでに七人の遺体が並べられていた。

斎藤さんは<非力ですまん>と思ったという。

午前九時、川添交番の藤田巡査は、
倒壊家屋から十一人を引きずり出していた。

だが八人が死亡していた。

自分の家族も心配になってきた。
しかしたしかめるすべもない。

今は一人でも助けようと、
自分に言い聞かせていた。

仁川の土砂崩れの現場では、
救出作業が続いていたが、
三十四人が死亡。

それでもなお無線から絶え間なく、
救助要請と遺体発見の声がひびく。

(同)

いったい幾人死んでいるのだ、
と警察は思ったことだろう。

災害の大きさに比べ、
いかにも警察力は手薄だった。

しかし警官たちが力の及ぶかぎり、
懸命に職務を遂行したことを、
私たちは覚えておきたい。

消防士たちもそうだった。

一軒二軒の火事ならともかく、
八方から上る火の手に対処の仕方はない。

長田では地震発生後、八時間たったときには、
十七件の火災が発生していた。

ポンプ車が出動するが壊れた家が道路を塞ぐ。
長田は燃え続ける。

応援が来れば消せる、
それも全国的な応援が。

消防庁は指示した。

しかし、水道のポンプ場は停電、
地震で水道管はずたずたになり、
配水池は干上がってしまった。

消火栓からは水が出ない。

消防は何をしている、
早く火を消せ。

罵声を浴びながら消防士たちは防火水槽をさがし、
ホースを延ばして放水しようとしたとたん、
狭い通路の奥の文化住宅一階からどっと火が噴き上がる。

命からがら逃げた。

すでに手をつけられる段階ではなかった。

それでも力のかぎり消火しようとし、
生き埋めの人を救おうとした。

灘消防署の東消防士は、
つぶれたビル三階にとじこめられた夫婦を、
救出しようと隣の建物の壁を壊して入った。

コンクリートを叩いては鉄筋を切り、
切っては叩く。

せつない手仕事だが一刻をいそぐ。

手の豆が破れ、ハンマーの握りは血にまみれる。
やっとの思いで三十センチの穴を開け、
強力ライトをさしこみ、

<光がわかりますか>かすかな夫の返事。

十時間後に救出された夫がまずいったのは、
<妻は救出できますか>

むずかしい、といわれて、

<お母さん、すまん>夫は泣き出した。

ほかに六名、すべて遺体で出た。

(1995・3・4 大阪朝日)

消防士たちも、
体力の限界ぎりぎりまでがんばっていた。

住民たちもそうだった。
家が壊れて家族や近所の人と、
避難先の小学校へ着いた新聞記者のTさんは、

<怪我をしていない男性のかた、
生き埋めの人を掘りだしますから、
救助にご協力ください>

とのハンドマイクの放送を聞いて、
すぐ走っていった。

十人あまりの男性が走ってきたという。

倒壊した民家から皆で必死にひきずり出す。
見ず知らずの男同士、しかも身内を亡くし、
家を失った人もいるというのに。

みな心を合わせて救出作業に当たった。
五人のうち三人までが遺体だったが。

(1995・1・27 産経)






          


(次回へ)

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