・災害対策本部が生田署に移された、
その間も各警察署には救いを求める人々が殺到していた。
地震直後の西宮署にかけこんできた男性、
<生きているんです。たすけてください>
生き埋めになった妻子。
受付の高柳巡査は男性について走る。
途中、ほかの住民から、
<うちも助けてほしい>とすがられるが、
<各自で対応して>と答えざるを得ない。
崩れた家の中に母親と幼児二人、
瓦礫のすき間に入って、
母子を助けることができた。
幼児を抱き上げると腕に幼児の震えが伝わる。
<うれしかった>と。
(1995・2・16 神戸夕刊)
午前六時半、越木岩交番(西宮)の小西巡査は、
傾いたマンションから、十人の男女を、
次々背負って助け出す。
七時二十分、刑事一課の斎藤警部補は、
中須佐町の倒壊家屋から一人を救出、
土ぼこりが立ちこめる中を、
<のこぎりとバール!>と住民に叫ぶ。
必死に手作業で掘りすすむ。
やっと老夫婦が生還したのは、
正午をまわっていた。
周囲から喚声があがるが、
すでに七人の遺体が並べられていた。
斎藤さんは<非力ですまん>と思ったという。
午前九時、川添交番の藤田巡査は、
倒壊家屋から十一人を引きずり出していた。
だが八人が死亡していた。
自分の家族も心配になってきた。
しかしたしかめるすべもない。
今は一人でも助けようと、
自分に言い聞かせていた。
仁川の土砂崩れの現場では、
救出作業が続いていたが、
三十四人が死亡。
それでもなお無線から絶え間なく、
救助要請と遺体発見の声がひびく。
(同)
いったい幾人死んでいるのだ、
と警察は思ったことだろう。
災害の大きさに比べ、
いかにも警察力は手薄だった。
しかし警官たちが力の及ぶかぎり、
懸命に職務を遂行したことを、
私たちは覚えておきたい。
消防士たちもそうだった。
一軒二軒の火事ならともかく、
八方から上る火の手に対処の仕方はない。
長田では地震発生後、八時間たったときには、
十七件の火災が発生していた。
ポンプ車が出動するが壊れた家が道路を塞ぐ。
長田は燃え続ける。
応援が来れば消せる、
それも全国的な応援が。
消防庁は指示した。
しかし、水道のポンプ場は停電、
地震で水道管はずたずたになり、
配水池は干上がってしまった。
消火栓からは水が出ない。
消防は何をしている、
早く火を消せ。
罵声を浴びながら消防士たちは防火水槽をさがし、
ホースを延ばして放水しようとしたとたん、
狭い通路の奥の文化住宅一階からどっと火が噴き上がる。
命からがら逃げた。
すでに手をつけられる段階ではなかった。
それでも力のかぎり消火しようとし、
生き埋めの人を救おうとした。
灘消防署の東消防士は、
つぶれたビル三階にとじこめられた夫婦を、
救出しようと隣の建物の壁を壊して入った。
コンクリートを叩いては鉄筋を切り、
切っては叩く。
せつない手仕事だが一刻をいそぐ。
手の豆が破れ、ハンマーの握りは血にまみれる。
やっとの思いで三十センチの穴を開け、
強力ライトをさしこみ、
<光がわかりますか>かすかな夫の返事。
十時間後に救出された夫がまずいったのは、
<妻は救出できますか>
むずかしい、といわれて、
<お母さん、すまん>夫は泣き出した。
ほかに六名、すべて遺体で出た。
(1995・3・4 大阪朝日)
消防士たちも、
体力の限界ぎりぎりまでがんばっていた。
住民たちもそうだった。
家が壊れて家族や近所の人と、
避難先の小学校へ着いた新聞記者のTさんは、
<怪我をしていない男性のかた、
生き埋めの人を掘りだしますから、
救助にご協力ください>
とのハンドマイクの放送を聞いて、
すぐ走っていった。
十人あまりの男性が走ってきたという。
倒壊した民家から皆で必死にひきずり出す。
見ず知らずの男同士、しかも身内を亡くし、
家を失った人もいるというのに。
みな心を合わせて救出作業に当たった。
五人のうち三人までが遺体だったが。
(1995・1・27 産経)
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