YASUKOの人生珍道中

2006年秋、新しく始まるYASUKOの人生はブリスベン!この先どうなることやら…珍道中

帚木蓬生

2013-09-30 16:51:38 | Weblog
『安楽病棟』

いや~! 重い本でした 

でも、難しいという意味ではなく、『年を重ねる。身体が不自由になる。ボケる。⇒死⇒できれば安楽死』と、だんだん近づいてくる人生の終末に関して、もう逃げるわけにはいかない年になり、真剣に考えざるをえなくなっている今だから…
若いころには感じなかった重さを感じた本でした。

もう一冊丸ごと載せたいくらいに心に残る言葉が多く…
ちょっと時間がかかるのですが、今日はお仕事が早終わりだったので、書きます 

『数えで87、満で85歳になります。この年になると、自分でも体を持て余して、どう始末していいものやら、一日そればっかりを考えてしまいます。
ええ、長生きは辛いものです。かと言って、長生きしないようにこちらからは手加減できません。』⇒この感覚、少しわかるようになってきました(笑)

『しかし、何にでも引きき際ちうもんがあります。』⇒うんうん、これってむつかしいよね~。

『病院の二階にある年寄りのたまり場は、幼稚園の遊技場そっくりです。
保母さんのような若い娘が、指の体操や首の体操、塗り絵やちぎり絵やらを教えとるです。
小学唱歌や、輪になってぐるぐる回る踊りも教えられましたが、じきに馬鹿馬鹿しくなって、列の外で眺めていました。
そうすると若い娘が、そこのおじいちゃん、ここに来て、みんなに加わって、と何回も言うとです。
「わしのことを、爺さん爺さんと呼ぶな。坂東という苗字がちゃんとある」
私が怒鳴りつけたので、若い娘はびっくりして、それからは声もかけません』

『いや気の強いのは母親譲りだ』⇒ゴメン、ナオ! 

『「そげん何回も花を替えるくらいなら、造花にしたらよかろ」というのです。
あきれてものが言えませんでした。仏壇の花くらい、私はご飯の量を減らしても、本物を買おうと思っています。』⇒私も道端の草でも、生花が好き 

『老人を抱る経済的な負担も、国としては相当なものでしょう。
それに看護についても、まだまだ模索状態です。有効な薬物もないし、各個人の実情に合わせた看護や介護も確立されていません。
皆さんが現場で働いてみたら、多くの矛盾を感じるでしょう。無力感を味わうでしょう。
あるいは絶望を感じるかもしれません。

どうか老いから目をそむけないように。老いや痴呆に接する機会があったら、そこに何か人の生きる道、
この国が生きる道のヒントが隠されていると思ってください』

『特に初めて訪れる親類の人など、食べ物が命取りになることなど全く理解していません。
実際は動物園で動物に食べ物を与える以上に危険なのです』⇒本当にそうなのです! カステラは柔らかいからいいだろう。わかめだって柔らかいからいいだろう。っておもうでしょ? それがとっても危険なのです!
お茶だって、とろみをつけないと危ないのです!

『ほめる話には耳を傾けてもいいが、悪口話は半分差し引いて聞かねばならない』

『痴呆が最初に削りとっていく言葉は、この「ありがとう」ではないでしょうか。
逆に「ありがとう」が出る間は、痴呆があっても軽いといえます。』⇒そうなんですね。私もデイケアでこの「ありがとう」をもらいました。涙が出ました。

『80歳の人間の身体というのは、何かしら故障を抱えているものです。
80年間走り続けたトラックと同じで、どこかにガタがきています。

まして、石蔵さんは三種類の癌を患っていたのですから、傷み具合も並大抵のものではないはずです。
むしろまだトラックが動いていることが軌跡なのかもしれません。

本来ならその軌跡を感謝すべきでしょうが、心気症になってしまうと、故障した自分の身体を呪うだけです。
身体はまるで牢獄となり、足枷になります。魂の動きを妨げる重しなもです。
…おそらく心気症の患者は、1の体の変調が5にも6にも感じられるのでしょう。別なタイプの人たちが5の苦痛を1か2にしか感じないのと正反対です』⇒幸せのボーダーラインと同じね!

『 女性は何人か寄り集まり、洗い立てのおしぼりや胸当てを、一生懸命折りたたみます。
一枚折るとすぐ二枚目に取りかかり、やり尽してしまうまで止めないのです。
何か広がっているものがあれば折り畳む習慣が、70年80年と生きてきた間に脳の奥深い処に刻み込まれたとしか思えません。
女のさがみたいなものを感じます。』

『お年寄りのケアというのは大変だけど、わたし、人をケアするって、自分もケアされる気がするんです』⇒これも本当! デイケアで手をつないでいるだけで幸せだったし、帰りにはエネルギーをもらっていました!

『世間ではQOLと言って(生活の質)ばかりを取沙汰しているが、同じように大切なのはQOD(クオリティ オブ デス死の質)ではないのか。
90歳の高齢者が肺炎にかかると、炭酸ガスが脳に溜まって、本人は苦しくも何ともない。
その肺炎を若者と同様に積極的に治療するべきだろうか。今はいかに長生きするかより、どのように周囲に迷惑をかけずに粛々と死ぬかが問われている』⇒私は自分に対しては延命治療はやめてくださいって、書き記してるけど…自分以外の人にそれができるかというと…

『患者さんたちは、分け合い、助け合い、そして感謝の三つを持っている。これは現在のお年寄りをはぐくんできた奥ゆかしい文化の名残かもしれない。
これが少し後の世代になると、もうこんな美点もなくなっているはずだ。その意味で、今の患者は痴呆であっても私たち以上に人間的だと言って良い。』

『誕生は“授かる”と言い、亡くなるときは“召される”と言って、生死を何か大きなものに託し、生命を預かっていると考えていた時代と違って、今や私たちは誕生も死も自分の手で操作する対象になってしまった。
それは単に医療現場を変えるだけでなく、私たちの生死に対する考え方にも影響を与えている』

ふう~。
たぶん、もっと若い時だったらもう少しサラッと読み進めたんだろうけど…
いちいち考えて、納得できちゃって…
特に今回の日本滞在でデイケアでの仕事を体験してしまったので…
読んでて、苦しかった。
でも、読むのを辞められなかった。
640ページもある長編なので、簡単には読んで!って言えないけど、
今を生きているすべての人が経験をしなくてはいけないことなので、少しでも多くの人たちに読んで欲しい!
そして老人介護をする、される立場を少しでも理解したうえで自分の老いと向かい合ってほしい。

自分自身の老いなのだから、他人任せにしちゃいけないし、できないと思う。

自分の人生なんだから…
考えた通りには行くわけないけど、終わらせ方も自己責任で考えないとね。

まだ考える時間があるこの年齢で、この本に出会えたのはとってもラッキーだと思う!

出会いをくれた二ム氏に感謝!

ところで…
当の二ム氏は、この本、読んだのかしら?